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【はつこいふしまつ】 後編

 承前

 翌朝の六時過ぎ、二人でホテルから出た。駅近くまで来ると、じゃあまたね、と言い合って別れた。別れてからは米良のことを考えなかった。早朝の冷たい風が吹き抜けるデパート前の空間で、相鉄線の方向へ米良の背中が消えるのを見るともなしに眺めたあと、JRの改札へと向かう私にあったのは、耳の奥で何かが擦り切れていくようなチリチリという微かな音だけだった。湘南新宿ラインの列車に乗り込んでボックスシートに腰かけると、それも背もたれに吸い込まれて消えた。多摩川を見届けてから目を閉じると同時にすとんと意識が眠りに落ちた。電車で眠るといつも夢を見るがそれもなかった。断固とした眠りだった。しかし、電車が新宿駅に停まるときっぱり目が覚めた。目を開けて五分で池袋に到着した。降りた。スマホを見るとまだ七時半にもなっていなかったから、地下道の途中にあるスープストックトーキョーで粥を食べた。半分食べて胃に届くのを待ち、それからもう半分。小さなグラスに水を二回おかわりして飲み、八時二十分に席を立ち、学生たちが形作るまだ緩やかな流れに乗って大学に向かった。九時前からかなり多くの学生がいる。知らなかった。九時からの一限の講義にぎりぎりでなく出席するのは初めてのことだった。あまり寝ていないからか、妙に頭が冴えていた。一限の少人数クラスでの専門性の高い講義はなかなか有意義な内容であった。もっとも、発言を求められる機会はなかったのだが(幸いだったとあとで思った)。

 横浜駅からこの講義の終わりまで、私はなにごとも思わなかった。すべての移動や行動を自動操縦で済ませたみたいだった。感情のスイッチは切られていた。不自然に。

 講義が終わり外に出て、次の二限目の時間は空きだから、とりあえずベンチに座った。四台並んだ自動販売機の横のベンチで、人通りは多いが座るものは他にない。冬の乾いた陽光が北風の合間を縫って、私のはだかの膝にも暖かさを届けてきた。私は思った。ふと、思ってしまった。

 米良も学校行けたかな。

 米良。
 その名前はそのまま重い一撃となって私の胴体にめり込んだ。ベンチの上でウッと身を縮めた。臓器のどれかと心とが締め上げられる、ぎりぎりという不快に軋んだ音が突然、頭に響きはじめた。誰かがブレーカーを復旧させたように、ヴンと音を立てて突然すべての電源がオンになった。二日酔いもはじまった。全ては猶予されていただけだったのだ。
 昨晩の自分の言動が次々と思い出される。ひとつ思い起こされたら残りもどんどん蘇ってきて、雪崩のように私に襲いかかった。
 酔いにまかせた告白。ホテルでの私。ひもパン。

 やめて、きつい……吐く。

 せき止められていた分、しっかりと激しさを増した二日酔いと羞恥の波を、一身に受けることになった。私は為すすべもなくベンチの上で固まっていた。内臓がもんどりうって暴れていた。自分の膝下と地面を見つめていることしか出来なかった。どれくらいそうしていたかはわからないが、二限目を終えた人の波が過ぎていった感覚があったから、少なくとも一時間半は経っていたのだろう。ようやく動けるようになるとトイレに行って吐いた。個室にたてこもって何度か吐いたが、吐いても楽にはならなかった。当面吐くものがなくなったのを確認してふらふらとトイレを出ると、ちょうど午後の予鈴が鳴った。私は午後の講義に出ることにした。出欠も取られない講義なのだから帰って寝れば良いものを、まともな判断ができなくなっていたのだ。午前中、一限の講義を受けたときにはあった(あると錯覚した)頭の冴えはもうどこにもなく、いつも易しいはずの講義は理解不能なただの重たい音として頭蓋にのしかかるだけだった。私はただ机に突っ伏して、むかつきの波をやり過ごすほかなかった。
 プリント教材が前の席から回されてきても、腕の中に顔を突っ込んだ姿勢のまま動けずにいた。ひとつ席をあけた隣に座っていた人が代わりに束を受け取って回してくれていた。そのやさしい手は突っ伏した私の腕の横にも供えるように一枚、そっと資料を置いた。私はその手元を、顔に落ちかかった自分の毛束と腕の隙間から見ていた。細いが男の人の手だとわかった。この人きっと私を見て呆れてるよな、と考えてまた落ち込んだ。酒のにおい、絶対、届いちゃってるし。この距離じゃ。……ああでもほんと、きれいな手だな……、

 気が紛れかけたところに、連想ゲーム的に昨日のホテルでの米良のすらりとした指がフラッシュバックした。「うぅ」と声に出して呻いてしまった。

 なんてことをしてしまったんだ、ほんとに私は、初恋の人に――いや、ナニをしたんですけど――って、最低だな。駄目、また吐きそう……
 などとひとりでやっていたら、

「アカリ大丈夫?」

 低く落とした声がかけられた。
 驚いて、重い頭を緩慢にめぐらすと、声の主は横の席の、やさしい手の君であった。ていうか、飲み友達の佐々木だった。

 そういえばこの講義は単位が取りやすいと佐々木に教えられて取ったんだっけ。考えているうちに、佐々木は目立たないタイミングで私を講義室から連れ出して、多目的トイレに導いた。それで私に一度吐かせた。その間佐々木はドアの外にはりついて、時々私を励ました。「吐けたー?」。心底やめてほしかった。
 トイレから出ると佐々木が真面目な顔をして「行こっか」というので、医務室に連れて行かれるのかと思った。二日酔いで医務室、かっこ悪すぎる。おおごとにしないでほしいと言いたかった。しかしいかんせん、意見をする気力もないので、おとなしくついていくことにした。


**


 連れて行かれたのは24時間営業の居酒屋だったし、目の前に置かれたのはキンキンに冷えたジョッキだった。アサヒ、スーパー、ドライ。

「これは一体どういうことなんでしょう」
 私はビールから視線をそらしつつ佐々木に問うた。ビールと目が合ったら、吐く。
「迎え酒だよー」
 佐々木は言った。自分はとっととウーロンハイを飲みながら、壁の品書きを振り返って熱心に検討している。
「ホルモン炒めと厚揚げ。あっあと沖漬けください」
「あいよー」
「いやいやいや。酒むり、ぜったいむり、私の前に置かないで。てか吐くの聞いてたよね。私けっこうぐったりしてるよね。こんな状態の人間を居酒屋に搬送とか、その発想。怖いんですけど」
 そう抗議をしただけで酸が口まで昇ってきた。あぶない。
「つまみ他なんかたのむ?」
「いらない。いらないし、ホルモン炒めと沖漬けは嫌がらせとしか思えない」
「うまいよ?」
「知ってるよ。ここの沖漬け好きなんだよ。でも今は顔も見たくない、まじで。あるでしょ、そういう時」
「あ、すません鶏皮ポン酢追加でー」
「あいよっ」
「きいて……きいて佐々木……あなたの心に直接語りかけています……お酒はむり……二日酔い……とてもつらい……お冷やを……お冷やを氷抜きで頼むのです……」

 私はここでも突っ伏すことになった。卓に腕を投げ出しておでこを貼りつけたまま動けなかった。向かいで構わず飲み食いをする佐々木の、ジョッキや箸の音が頭に響く。炒め物や、他の卓の魚を焼くにおいが鼻腔に流れ込んでくる。酒場が五感を責め立てる。
 その格好のまま、昨夜のことを話した。なぜ話し始めたのだろう。たぶん佐々木に促されたのだと思う。わからない。とにかく佐々木に、最初から最後まで話した。この場合、話の最初というのは米良を好きになったところだ。小学生の初恋から昨晩のホテルまでをぼろぼろと語った。佐々木はところどころで手短に茶々を入れながら聞いていた。酒もずっと飲んでいた。私の話がずるずるのたくる蛇のようにしてようやくさっきの講義室にたどり着くまで、どれぐらいの時間喋り続けたのかはわからないが、その間に佐々木の酒が三回ほど入れ替わる音がした。そう考えるとそこまで長くはなかったようだ。
「なんか要は初恋の相手とやれたってこと? よかったじゃん」
「うわあ。佐々木はそう言うと思ったあ。佐々木って恋愛の機微とかわかんないもんね」
「うん。人を好きになるっていうのがよくわかんないからねー」
「それってさあ、前も言ってたけど、マジなんだ」
「うん? うん」
「前々から不思議に思ってたんだけど、人を好きにならないっていうのと、佐々木のいつもの……プレイボーイ的な生活って、両立するの」
 ヤリチンという言葉を避けたら変な言い回しになってしまった。
「だって好きと性欲は別でしょ」
 何言ってんの、という感じで返された。
「いや、私はその好きと性欲とが密接に関係しているから全くわからないけど。もうね、ズブズブだから。好きと性欲、二人三脚だから。でも佐々木はそうなんすね。わかった」
 佐々木と関係を持つ相手はみんな、セックスだけの間柄であることは承知の上だから、特に問題は起きないらしい。本当にその通りに割り切っている相手もいるのだろうが、中には佐々木の調子に合わせているだけで、佐々木のことを好きな女の人も絶対にいるよなと思う。くわばらくわばら。佐々木は涼しい顔である。
「だからおれも、やれたら嬉しいのはわかるよ。気持ちいいのって最高じゃん。おれは好きな子が相手じゃなくても気持ちよかったら幸せだけど、好きな人とならもっと最高なんじゃないの」
「私は佐々木になりたいよ……」
 私が佐々木のようであれば米良とやったことを全力で喜んでいて、今ごろ米良に「またしようねー」とかLINEしている。いや、そもそも佐々木なら恋しないから、米良に恋することもなかったのか。それはそれで寂しい気もする。けど恋なんかしなければ今みたいな気持ちにならないで済んだのは確かで、やっぱり佐々木であるというのは私には魅力的な考えだった。
 佐々木は言う。
「なんでそんな落ち込んでるのかよくわかんないんだけど。セックスよくなかったってこと? 妄想しすぎて期待とちがったとか。あるよね!」
「全然ちがう」
 残念ながら佐々木でない私はぐだぐだ言わずにいられない。
「私さあ、たぶん米良にどん引きされたと思う。ホテルに連れ込むときの私、おじさんそのものだったもん」
「あっ、あー。そこは確かにすごいと思った。『何もしないから』って言ったんでしょ。おじさん以外でそのセリフ使う人いるんだ、ってびっくりした」
「うん……」
「おじさん ホテル で検索したら予測変換で出てきそうだもんね。『何もしないから』」
「うん……」
 さあっと血の気がひいて、伏せた顔の白くなるのがわかった。酔いにまかせた昨日の言動のひどさには自分でも思い至っていたが、改めて人に言われると重みが違う。まじか、ってなる。
 昨日の化粧が浮いた顔をのろのろと起こす。卓にはぬか漬けきゅうりがのっている。他の見たくない料理の皿たちのあいだでそれだけが少し光って見える。えーいままよ、と一切れ口の中に放りこむ。おいしい。
「ホテル行くときにさ、今思い返してみれば明らかなんだけど、なんていうんだろ、米良の考えてることの、気配? っていうのがさあ。『せっかくだから一回やってみようかな』以上のなんにも含んでなかったんだよね。……それくらいはさあ、どんなに取り乱してても、浮かれてても、わかってよかったはずなのに」
 佐々木は、ははーんという顔をした、のかどうかはわからないが少し変な顔をして、
「そっか。アカリはそのメラさんって人に、好きになってほしかったんだ」
 と言った。
 言葉もなく顔を覆い、その顔を卓に置き直した私に、佐々木は「寝たら好きになってくれるかもなんて、アカリってけっこうロマンチストなんだねー」とたたみかける。
「ん、違うか。実はアカリってすんごい床上手で、ベッドを共にしたら絶対好きになってもらう自信があったのか。いいなー、おれなら絶対陥落しちゃう」
「いえ、あの、もう、そのへんで……」
 今度は顔が赤くなっているのがわかった。血が引いたり頭に昇ったり、青くなったり赤くなったり忙しい。
 佐々木の言う通り、私は米良にまだ「もしかしたら」を期待していたのだろうか。八年も好きだった人。その人と結ばれることを夢見ていたのだろうか。セックスをきっかけに?
 でもそれは起きなかった。米良は親切だった。丁寧だった。親愛の情も感じられた。でも私を好きではなかった。する前もした後も一貫して。そのことは身体を通して残酷なほどはっきりと伝わってきた。
「そりゃそうだよね……そうだわ。やって好きになったこと、私もないもん。もともと好きだったり、『いいな』って思ってた人となら燃え上がるけど。そもそも米良が私のこと何とも思ってなかったんじゃ、私を好きになるわけないよなあ」
 種火のないところを全力で吹く、全裸の私。火はおこらない。しゃがみこんだその尻が、哀しげなイメージとなって脳裡に浮かぶ。振り払うように声を出す。ああー。
「私が八年間期待し続けた『もしかしたら』って、最初からありえなかったんじゃん。あの八年の恋ってまるっきりの徒労だったんじゃん。そんなこと自分でわざわざ証明しに行っちゃった。ばかじゃん。せっかくの淡い思い出、自分でぶっつぶしちゃった」
「初恋をファックしちゃったってこと?」
「それ!」
 何がそれ! なんだか。

 ビールが運ばれてくる。ジョッキが二つ。佐々木が音もなく注文していたらしい。もう常連すぎて店員との間にテレパシーが使えるようになっているのかもしれない。
 最初に私の前に置かれていた古いビールは佐々木がとっくに飲み干してなくなっていた。クリーミーな泡の乗った新しいビールを、こんどは私も手に取る。
「やっぱ似合うわー」佐々木が笑う。
「乾杯してくれる?」
「いいよ」
 さっきまで凍らされていたジョッキはごちん、と無骨な音をたてる。泡に口をつけて、キンキンの液体をぐっと喉に流し込む。
 迎え酒の効能に期待なんかしていない。普通にまだ気持ち悪い。ただのやけくそだ。三分の一くらいをぐぐっと飲み下す。強い炭酸が食道を刺激しながら降下する。あーあ、またつぶれることになりそうだ。
「ん?」
 私は違和感をおぼえてすぐにまたジョッキを取る。もう一口。グッグッ。
「あっれえ?」
 佐々木はにやにやしている。
 右手に握ったジョッキの中身がするすると喉に落ちていく。どうもおかしい。三分後には私は手を挙げて店員にこう告げていた。
「すみません、生ひとつください」
 佐々木はすかさず指を二本立て、私のおかわりに便乗する。
「あいよっ」
 佐々木の友人だという店員の女性がくすくす笑いながら空のジョッキを回収していった。
「ね、おいしいでしょ」
「なんか……。ここの生変わった?」
「変わらないよ。おれたちのスパドラだよ」
「うそ。クラフトビールとかじゃなくて? 芳醇な旨みとほのかな甘みを感じるよ」
「だから言ったじゃん。迎え酒はおいしいんだって」
 佐々木は、芳醇な旨み! ほのかな甘み! とげらげら笑っている。
 釈然としないまま三杯飲んだ。すぐにまた吐き気に襲われるだろうと思っていたのに、その瞬間は訪れず、どころか胸がすっきりしてきた。
「なんかいいかも。気持ち悪くないかも!」
「やったー。アカリおかえりー」
 私たちは改めて乾杯した。佐々木が二切れ残しておいてくれたイカの沖漬けとも和解した。ここは酒もつまみもおいしい良い店だ。

「さっきの話だけどさ」
 名物の牛すじ煮込みを二人でつついている時、おもむろに佐々木がむしかえした。
「え、何」
「初恋をぶっつぶしたって話。アカリはあんなグロッキーになるくらい取り乱してたけど、おれはよかったんじゃない、って思ったよ。アカリにとってはそれ、必要な作業だったんじゃないの」
「必要な作業?」
「そう。いるよ。全部めちゃくちゃにぶち壊してからじゃないと先に進めない人。きっとアカリもそういうタイプなんだよ」
「先に進めないって、え、初恋から?」
「うん」
「うーん? いや、たしかにすごく好きだったけど。進めてなくはなくない? 何人か付き合ってきたし今もヤバい状態だけど彼氏いるし、普通に恋愛できてるけどな」
「えー。そうかな。八年も好きだったんじゃほかで彼氏作ろうが何しようが、その人への気持ちにとらわれちゃってる部分が残るでしょ。どうしても。ぶち壊して更地にしないことにはさあ。だからメラさんとのことはなんか、よかったんじゃない? 粉々に破壊するくらいでちょうどいいっしょ」
「あなたは池袋の父かよ」
 私は言った。感心してしまったのだ。
「へえ……。じゃあ私って今、初恋のがれきの上に立ってる感じ?」
「そうそう。かっこいいね。ビール飲んで」
「そんなもんかなあ」
 佐々木は多分けっこう酔っている。気持ちよくなってお喋りになっているのだと思う。でも佐々木が言うように考えてみると、少し気分が良くなる、ような気もする。
「なぐさめてくれてありがとう」
「なぐさめられたの? よかったね」
 佐々木はにこりともせずに言った。

 五杯目のビールを飲んでいるとき(そろそろ違う酒に移行したくもなっていたのだが、下手を打つとまたトイレを占拠することになりそうなのが怖かった。わき目をふらずにビールでいくことにした)、佐々木の友人やら先輩やらが合流してきた。私が知っている顔も知らない顔もあり、口々に「おーアカリじゃん」「仕上がってるー?」「この人ウワサののんべえの人?」などと言いながら席を詰めてくる。どうやらもともと予定されていた集まりらしい。二人にしては広い席、と思っていたらこういうことか。佐々木の目が据わっているのを見てみんな笑っていた。やっぱりこの人相当出来上がってるよね。
 どうも佐々木はふらふらと講義室に入っていく私を見かけて、お、酒を飲める人間がいた、と思ったらしい。夕方からの集まりに先がけてゼロ次会を開催することを思いついて、誘おうと私の横の席についたが、私が一向に顔を上げない。明らかに二日酔いとわかったが、それはともかくゼロ次会は開催することにして、まだ口の中がすっぱい私を居酒屋に連行してきたのだ。迎え酒とかはどうでもよくて、自分が飲みたかっただけらしい。そんなところだろうと思っていた。私としては佐々木のでたらめな提案のおかげでビールと和解できたので、酒のダシに使われたのも特に気にならなかった。

 私の心は凪いでいた。どうやらメンバーが揃ったらしく、卓ではひっきりなしに酒が入れ替わり、みんなの声の大きさも増していく一方だったが、私とビールとのパートナーシップもここで最高潮を迎えていた。私の体内には黄金の海が広がって、静かな海面をやさしく撫でるような風が吹いていた。その湿度の低い風は私の精神にも吹き込んで、ほんの少し前までそこに吹き溜まってくすぶっていた羞恥・自己嫌悪・自己憐憫とその一族郎党をひと吹きで一掃してしまった。
 胸がゆっくりと上下するのを感じた。その一度ごとにどこまでも透き通っていくようだった。深い深いところまで。これが呼吸なら、これまで息をちゃんとしていたことなんてなかったのかもしれない。少なくともこの二週間は。――いや、そんなもんじゃなく、米良とはじめて出会った十歳の初夏から、私はまともな呼吸なんかしてこなかったのかもしれない。

 少しのあいだ閉じていた目を開けると、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。すごく広い空間に一人でぷかぷか浮かんでいるような感覚がしていた。重力のない、どこまでいっても景色のない空に、ひとりでポンと放り出されていた。心もとなくて、あやうくて、それでいて何もかも解ったという感じ。今ならこの世界のどんな大きな問いにも答えられそうな気がした。圧倒的な孤独感と全能感が私を包んでいた。
 こういう感覚をおぼえるのは初めてのことではない。いちばん旧くは幼稚園児のころ、両親に連れられていったどこかの山林で景色を見ていたときに突然それが訪れた。中学生のころ、受験勉強を詰め込みすぎて知恵熱を出したときにも来た。数年に一度のペースで予告なく来るので、来たときはそれとわかるようになっていた。去るときも唐突に去っていくのだが、そのことはどうもうまく覚えていられない。それが来ているときは、今知ってしまったすべてを抱えて今後の人生を生きていくのだな、と思う。『すべて了解した』と、このときも私は居酒屋で思った。

 消えていたみんなの声が戻ってきた。いつの間にか人数が増えていて、卓の向かいには同年代の見知らぬ女の子の顔があった。会話を聞くとどうやらここにはいない飲み仲間のひとり(私も顔は見知っている)の恋人らしい。恋人との関係に不満や不安をつのらせているようで、佐々木たち酔っ払いに「聞いてくださいよ」と諸々ぶっちゃけている。酒も手伝ってか、笑い混じりに始まった話がだんだんと悲痛な調子に変わっていく。みんなは恋人である男の側の友人であるので、どう反応したものかたじたじの様子だった。佐々木はただへらへらしていた。
 私がそのような席の模様を全知の存在として、『うむ、人とはなんと愛おしい生き物であることよ』的目線で眺めていると、向かいの女の子と目が合った。「どう思います?」と、叫ばんばかりの勢いで意見を求められたので、はあ。話聞かせてもらったけど、これこれこういうことですよね、それであなたはこう感じているんだよね、と全知の存在ならではの的確さで彼女が抱える問題を要約してフィードバックする。彼女は口をぽかんと開けたまま黙りこみ、数秒のちに目を見開いて「そう……! え、え、なんで? まさにそこです、一番つらいって思ってるところ!」と今度は本当に叫んだ。私はゆっくりと頷く。おおー、と周りから声があがる。佐々木もちょっとびっくりしたように薄く笑っている。彼女は私の隣に移動してくると、恋人とのもっと踏み込んだ話を打ち明けはじめた。そして「これってどう思います?」「アカリさんならどうしますか」と意見を求めた。私は求められている助言はいっさい口にせず、彼女の話していることの奥に潜むものを目に見えるままに、ただ描写した。簡潔に。それは潜んでいてもすべてを見通すこの目にははっきり映る、というか、彼女自身の姿よりも手前に映るくらいだ。私が短い見解を述べるごとに席は湧き、彼女は目に涙を浮かべて何度も頷いた。そのうちに彼女は核心に近い部分を自ら語り始め、それから「わたし、こんなふうに思ってたんだ」とかろうじて聞こえるくらいの小さな声で呟いた。それからいてもたってもいられずという感じで「彼氏にLINEしてみます!」とメッセージを打ち込んでいたが、数分後、望んでいた返答が得られたようで、私に熱烈なハグをした。そして風のように去っていった。誰かに行き先を訊かれて、背中で「エアーズロック!」と答えていた。北口のホテル。
 卓はどよめき、「何いまの。すげえ」「アカリってただの呑んべえじゃなかったの」「やばい」「池袋の母」「池袋の母!」「おれも悩み解決してほしいわ」「おれもおれも」と、みんなの日ごろの悩みが寄せられることになった。
 彼女がやらせてくれない、隣人がやかましい、猫が懐かない、パチンコがやめられない、弟の彼女がクソ好み、など、それぞれの思いを叡智に満ちた眼で眺め、ひとつひとつに対してコンパクトな見解を述べる。おおお、といちいち歓声が上がる。私は「池袋の母」の異名をほしいままにした。
 「池袋の母」コールがピークを迎えたとき、飲みの席をあとにした。「今日はこのへんで」と五千円札を卓に載せて立ち上がると当然ものすごく惜しまれたが、誰も止めることはできなかった。きっと私の知に圧倒されていたのだ。いや、全員、酔っぱらいなんだけど。私はずんずん歩いた。背中に「またお願いします!」と声がかかる。片手をあげてそれに応じた。

 まだ電車は動いていたが、そのままずんずん、北区にある家まで歩いて帰ることにした。北池袋を抜けて豊島区が終わるあたり、ドンキホーテが見えたところで、私を満たしていた知が消えた。あ。と思った。次の瞬間には何も知らないも同然のちっぽけな、ひとりの人間の女であるところの私に戻っていた。

 とぼとぼと大通りに沿って歩き、ドンキに寄るも買うものは何もなく、ため息をついて大通りに戻った。ただの私に北区は遠く、外気は冷たく、昨晩から着たままの、最大限のさりげないおしゃれが寒かった。
 それでも、あんなタイミングで私にすべてを与えておいていつも通り奪い去った偉大なる何者かは、お情けのように、私に少しばかりのすがすがしさだけは残していってくれたらしい。寂しいし寒いし心もとないけれど、なんだか気持ちのいい夜道だった。
 「粉々にするくらいでちょうどいい」と佐々木は言った。それが不思議と何度も思い出された。酔って適当にそれらしいことを言っていたのは明らかなのに、佐々木の与えてくれたイメージは私の心を打った。かわいい思い出を手持ちのうす汚れたハンマーで打ち壊し、そのがれきの上にうらぶれた表情で立つ私。それこそ私なのだと思えた。すべての知など持たず、天に届くような高みに浮かぶのでもなく、自分で壊したものが散らばる荒れた土地に、一人で立っている。立ちつくしている。何もない。それが私なのだと、諦めるように、投げ出すように、思った。
「まさか今回の私の天使、佐々木だとは思わなかったなあ」
 私のほかに人影のない広い寂しい遊歩道を歩きながら、そうつぶやいていた。

 歩き続けて家に着いたときにはくたくたで、何も考えずにベッドに倒れこんだ。自分の部屋のにおいを懐かしく感じたのも一瞬で、あっ、という間に真っ黒な眠りに引きずり込まれた。久しぶりに、私はとても深く眠った。

 そのまま無罪放免とはいかなかった。
 私を救ったはずの迎え酒は迎え酒のままではおらず、私が眠る間に肝臓でせっせと高濃度のアセトアルデヒドを生じさせた。それは翌朝には胃痛・頭痛・吐き気となって、大げさでなく三日三晩私を苦しめた。酒に酒で打ち勝とうとする愚行の、わかりやすいしっぺ返しをくらうことになった。その間、学校に行くことなどはとても考えられず、バイトにだけはかろうじて出た。店に立つと「顔が白い!」、常連が来るたびに心配された。
 米良に言い訳めいたメッセージを送ってしまったのも痛かった。頭痛のために横になっているしかなかった日中、自分を止めておくことができなかったのだ。米良から半日置いて返ってきたLINEには、『変わらずいい友達でいようぜ』ということをオブラートできれいに包んだ文言が書かれてあった。
「気つかわせてるじゃん! 気、つかわせてるじゃん!」
 転げ回ってちょっと吐いた。

 自業自得ここに極まれりというような、そういう情けない数日を過ごしたのちに、ようやく人間の形を取り戻したわけだが(かろうじて)、人間に戻ったところでやっぱり私には何もなかった。それを再確認した。ぺたんと座り込んだ脚の下に荒れた土地があるばかりだ。
 でもなあ、と考える。私はこんなでも、これから先も私として生きていく以上、何もしないわけにはいかないよなあ。何も得ないわけにはいかないよなあ。私は、自分のために何かを壊すことができるのと同じように、自分のために何かを組み立てていくことができるのでなければいけない。そのはずだ。そう祈る。逃げるのでも壊すのでもないことに目を向けようと、ついに私はそう思った。大あばれの末に。奇祭の終わりに。

 そののち正式に別れることになる冷却期間中の彼氏のことを考えた。全然取れていない大学の単位のことも考えた。ひとり暮らしをはじめたばかりの部屋のこの先の家賃についても考えた。どれも途方もなく思えた。
 天を仰いでも特に叡智はもたらされない。この間の貴重な全知タイムを酒場で使い果たしてしまったことが今更ながら悔やまれる。

 ため息を吐き出して、水でも飲もうと立ち上がる。水道をひねる。水が出る。それを飲む。私は続く。長期戦になる。




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