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いらぬ心配、座り込んで考え込んで

毎週日曜日か火曜日には近くにひらかれるマルシェに行って一週間分の野菜と肉、魚を買ってくる。
魚は2枚におろして塩干し、野菜はビニールから出して紙に包み直して冷蔵庫、もしくは根菜は常温。
鶏肉は最近肉屋さんの鳥の捌き方をいくつか見て骨の抜き方を覚えた。動画のような穂先まで良く切れるように研ぎ直してないので少々苦労しながらも、手早く肉を解体できるようになった。

肉を解体しながら勢い余って左手の親指の爪を剥がす方向に曲げてしまってしばらく爪の中が青あざになって痛かった。
痛いのはいいのだけれど、生の鶏肉はカンピロバクターが危険だと聞いたことがあって扱いには慎重になっていたのでなんだか怖かった。
食べたわけじゃないけれど、爪の隙間の粘膜のところにその菌が入ってたらどうしよう…。
昨日は親指がずっと熱かったので気にかかっていてちょっとおとなしくしていた。(もう大丈夫)

マルシェでは久しぶりに少し嫌な思いをした。
並んでいる私と目が合っているのに私の後ろのマダムに注文を聞いた八百屋のおじさんは(マダムが「このマドモアゼルのほうが先よ」と言ってくれた)、山積みになっているネギの中の、ほかのネギはみんな綺麗なのに一本だけ葉の部分が傷んでいるネギを私に渡した。
オレロン島から来ている魚屋さんでサバを買おうとして「これ生で食べられる?」と4回くらい聞いたのに言葉が聞き取れないみたいな顔をされた。
くそお、なめてるな。
そのうちお互いが嫌な思いをしない感じでこういう意地悪に対抗できるくらいの語学力をつけてやるんだから、見ておれ。

見てみたかった踊り手の方の舞台を見に行く。
見ることができてとても良かった。
彼女のからだから立ちのぼるものが好きだなと思った。パワフルだけれど繊細な輪郭のつかいかた。
舞台の全体の構成や、時間配分や音楽については色々考えてしまう。
磨かれた動きをもつダンサーたちを目の当たりにできることはもちろん私にとっても嬉しくなってしまう、わくわくするような時間なのだけれど、つくり手がそれをどう扱っているか、眼の前にひとがいて何かを演じてるってなんなのか、出来事がそれを見ているひとに刻み込む、その色んな層のことをどうやって私だったら取り扱いたいのか、私のものではない誰かのからだを使ってある時間を構成することとは何なのか、何故ああいう質の音を使ったのか、この作品からつくり手のどんな言葉が見えてくるのか…
そういうことを、ずっと考えてしまった。
舞台が終わって、大きな拍手が鳴り響き、周りが総立ちになっている中、ずっとわたしはそういうことを考えていた。

のんびり、ではないのだけれど、丁寧に掬いとろうとしてあまりに時間がかかってぼやけてしまうようなこと、森のりすみたいに埋めて忘れてしまったどんぐりがいつかは森になるんだからいいんだ、みたいな気長なこともいいんだけれど、それを継続する一方で、ちょっとアクセルをかけてみなきゃいけないことがあるな。
あと200年くらい生きるわけじゃないんだから。
こういうこと、ここ最近何度も自分に言い聞かせている気がする。
空っぽな語彙ばかり増やしてるから、あっぷあっぷしてるのだ。

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