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「切なさ」の正体 存在と不在について



「切ない」という言葉を私たちはよく口にする。

切ない曲、切ない別れ、切ない風景。






簡単に口にしてしまう「切ない」とは、いったい何なんだろう。
どんな感情を、私たちは「切ない」と呼ぶのだろう。






世界はいつも、私たちの前に存在している。はっきりと、色鮮やかに。
鮮明な世界は、はっきりとした喜びや悲しみに満ちている。

たとえ喜びも悲しみもなくても、世界は確かに形をもってそこに存在している。


「切なさ」はどうだろう。

言葉にするのも曖昧なその感情は、鮮明な世界のふと上澄みに、ひび割れに、形もなく漂っているように思う。





「その場所」に、存在していないもの。

存在していないからこそ、手に取れる確かな世界のなかで私たちはその不在を透かして見ようとする。どこにもない場所を探し、思い出す。

「切なさ」とは、不在への届かない想いのようなものなのではないか。




届かないからこそ、愛しく胸苦しく、心に迫る。

そんな感情を、私たちは「切なさ」と呼ぶのではないか。

悲しさとも、寂しさとも、似ているのにどこか違うその曖昧さで。




確かにそこにある世界のなかに「不在」として漂うものを、その「切なさ」を
私は、写真のなかに透かして撮したいと思う。

届かないものに、手を伸ばすように。






誰かの心に、そこにある「不在」を届けたいと思う。感じてもらえたらと思う。

一人でもいい。そんな想いを、探してくれたなら。
私は、シャッターをまた切ることが出来るだろう。

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