見出し画像

透明


三ヶ日から仕事がある会社なんてあるのかしら。透子はお湯を沸かしながら考える。

夫の仕事はごく普通のサラリーマンだ。1月2日にきちんとスーツにネクタイをして出かけていく夫を気遣いながら送りだしはしたが、これが仕事でない場所に向かうのであればずいぶん滑稽だと思った。

良く沸いたお湯をティーサーバーにいれるときのジュッという音が透子は好きだ。なんとなく気分が優れない時は丁寧にお茶を淹れることにしている。真剣に。そうすれば杞憂は少し安らぐ。
今日はマスカットティーにした、とても好きなお茶。きっちりと時間を図り、ウェッジウッドのワイルドストロベリーのカップへと注ぐ。お気に入りのカップからお気に入りの香りが漂うと、なにも変わらない安心な生活のなかにいる気持ちにしてくれる。

カップを持ったままソファの後ろの腰高の窓から外を眺める。お隣のおうちの薔薇の木に一輪だけ、間違えて咲いてしまった白い薔薇が風に弱く揺らいでいた。まるで自分みたいだ、と思うとなぜか静かな気持ちになった。透子はしばらくその薔薇を見ていた。



考えても仕方のないことは仕方ないのだし。

透子は仕事を辞めたときのことを考えていた。どうしてもあのときが透子の人生の分岐点だったように思えてしまう。


中規模の会社でデザイナーとして働いていた。POPというとあまり耳馴染みはないけれども、スーパーやドラッグストアで商品を飾るスタンドや広告のついた吊り下げ型のBOXのようなものは誰しも目にしていると思う。それをデザインするのが仕事だった。
地味な仕事だけど透子はそこが気に入っていた。大学を卒業して10年、少しづつ大きな仕事も任せられるようになっていた矢先だった。
1年前に結婚したばかりの夫に転勤の辞令がくだったのは。

(何年になるかわからない)別居生活を続けるか、透子が転勤についていくか。考えてもどうしても答えが出せなかった。


結局、夫や義父母たちに押しきられるような形で転勤についていくことになり、積み上げた仕事とはそこで別れてしまうことになった。
後ろ髪が痛いほど引かれた、きっと悔やんでも悔やみきれない思いを何度もするだろうと思った。


あの時、仕事を選んでいたら。
仕事をしていたころは当たり前のように夫と自分は対等な関係だと思っていた。自信のある気持ちでいられたし、今よりきっとはっきりと自分が存在していた。



転勤を機に辞めてしまった仕事は、夫が本社に戻っても復職は出来なかった。子どもを望む夫と義父母が、働くことをあまり良しとしなかっから。(結局、子どもは出来なかったけど)


家で1日中毎日を過ごしていると、どんどん自分が希薄になってゆく気がする。

最初のころこそぽっかりと空いてしまった時間に、習い事などしてみたりしていたけれど。習い事のお月謝も、たまにするショッピングも、みんな夫の働いたお金で払っているのだと思うとなんとなく気がひけて、だんだんと家にいることが多くなってきた。

そんな透子は、ちゃんと透子としてここに存在しているのだろうかと不安になる。
例えば、夫が1月2日にスーツを着て出かけていってしまうのも透子のせいのような気がしてしまい問い詰めたりすることも躊躇ってしまう。

どうしようかと考えてみるけど、考えても仕方のないことはあるのだ。
なにかが決定的にもう違ってしまったのだ。それならいっそ、無かったことにしてしまおうと透子は思う。今日(何時になるかわからないけれど)夫が帰ってきても、何もなかったように迎えよう。

そうしてどんどんと透明になっていく自分を、静かに受けとめていく。
時々、助けを求めるように外を覗きながら。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?