ずっと寂しい人だけど

3月が終わる。
最後の方は少しリズムが崩れてバタバタしてしまったけれど、おおむねいい感じに過ごせたような気がする。たぶん。

3月は、というわけではないけれど、近頃はずっと寂しさというものについて考えていた。たぶん、人間の抱く感情のなかでも、実は案外プリミティブなものなんじゃないかと思っている。寂しさ。

私は本当に周囲の人に恵まれていて、運がいい人生を送っている。よい縁は結ばれるし悪い縁は早めに切れるし。けれど、どうしても寂しい気持ちを抱きながら、昼下がりにお散歩することがしばしばある生活だ。

どうにも(本当にどこにでもいる人間のアーキタイプ的な個体であると同時に)他の人とは、こと「恋愛」や「結婚」「子どもをもつこと」についての感覚や自分の身体のとらえかたが人とは違うんだな……ということに、20代の半ばくらいに緩やかに気がついて、誰にもそんなことは言えずに生きている。他人様と分かちあえる出来事や気持ちが比較的少ない人生なんだなというのは実感としてそこに横たわっていて、それがどうしても寂しいことがある。(だからといってTwitterで恋愛病み垢や夫婦の愚痴垢、死別垢などだけを眺める用のアカウントを所持していることは、まあそれはそれとして悪趣味な発露だなと自分でも思うけれど)

弟その1が死んでしまったときから、「どうして生きてしまっているんだろう」という薄らとした罪悪感は濃淡をつけてつきまとっているし、春めいた「恋愛」の話を聞くのは好きだけれど自分が体験することはできないので、いつも円の外にいる気持ちでいる。それが、どうしても、寂しいことがある。

私は欲張りなので、なんでも自分ごととして触ってみたいし食べてみたいのだ。それができないことが、なんとも寂しいと感じることがある。

私の寂しさは、そんなものだ。
たぶん、みんなが違う色形の寂しさを抱いて生きているのだと思う。

私たちはたぶん、誰もがずっと寂しい人だけれど、それでいいのだと思う。
抱えている寂しさの形が、その人の魂の形なのかもしれないし。