2023-09-14の日記(世界ゼロ秒前仮説)

 僕は今にしかいない。次の瞬間には(それがあるとすればだが)、僕は次の僕に託されて、それはもう今の僕ではない。それは、僕が時間を超えて同一性を持つとする証拠がないからだ。
 世界五分前仮説なんてものもあるが、5分は長すぎる。世界はほぼゼロに近い時間だけ存在する。そこに世界はあるだけで、存続はしない。何かが続くというのは、そう信仰しているだけで、証拠はない。

 似たような主張として、未来や過去なんてのは人が決めたことでそこに方向性はないという人もいるが、僕はそうは思わない。未来や過去があるとしたら(世界が今以外本当に存在しないわけではないならば)、確かに今と繋がっているわけではないが、そこに順番は作れる。例えば今目の前で友人が死んだら、生きている時点と生まれていない時点が過去で、死んでいる時点が未来だ。未来や過去の性質は時間を超えた同一性を信じずとも、今この時に決められる。日が沈んだら未来。朝日が見えたら過去。

あんまり関係ない話

 じゃああなたは明日の予定なんて立てなくてもいいんですか?という問いには答えなければならない。あなたが今やってることはほんとうは時間を超えた自己の同一性を信じているからやってるんじゃないんですか?という問いだ。
 先に回答しておくと、時間を超えた自己の同一性を信じないことと明日の予定を立てることは矛盾しない。
 僕は今この一瞬しか生きていない。そう信じた時、具体的にできることは本当に何もない。だから人は自分が時間で繋がれていると信じるようになる。僕もその気持ちはわかる。
 しかし、そう信じなくとも、何かの動機を持つことに意味はある。「よし、映画を見にいこう!」、そう思った瞬間テレビの電源ボタンを押されて僕がいなくなったとしても、僕は映画を見にいこうとしていた。それだけで意味がある。
 何かを完遂したり、何かを継続したりすることだけに意味があるわけではない。今、この時、何かしようと思うこと。そこにはそれだけで重大な意味がある。むしろ、明日など来ないのに明日の予定を立てることにこそ、今を生きるものとしての尊厳を僕は感じる。
 今この瞬間を愛すること。それは今を過去や未来と比較することではなく、今を生きることを肯定することだ。
 僕は今しかない。だから行動や思考など意味がないかもしれない。それでも映画を見にいこうと思うこと。そこに、僕の意味がある。


 ここまで書いたことは僕が理屈を捏ねて考えたことで、僕の普段の感情の入り混じった考えとは異なる部分も大いにある。僕も素朴に明日の僕は何をしているだろうと考えることはある。そう考えさせる自然さはあるし、今以外僕ではないという考え方は正直健康に悪い。 

 でも、考えたことに意味はある。僕がそう考えられないとしても、世界は本当はそうなのかもしれない。そう考えることに意味がある。


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