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サカナクションの思想(サカナクションの「夜」とは何だろうか)

1.はじめに


 サカナクションの詞には、相当の頻度で「夜」が登場する。YouTubeにミュージックビデオがアップロードされている詞のある楽曲32曲中20曲に「夜」という語が含まれており、その他の楽曲にも「日没」「青紫の空」「藍色の空」「月」など夜に関連する語が登場しているものがある。サカナクションの楽曲のほとんどの作詞作曲を担当する山口一郎氏は、「夜」をどのようなものだと考えているのだろうか。そして、どうしてそこまで「夜」に執着しているのだろうか。この記事では、YouTubeにミュージックビデオがアップロードされている楽曲を用いてそれを探っていく。


2-a.知覚の限界に注目した山口一郎の実在論的な態度と「夜(a)」について

 サカナクションの「夜」の概念に触れる前に、説明しなければならない山口の態度がある。それは実在論的な態度であり、「ナイトフィッシングイズグッド」の次の歌詞から読み取れる。

アスファルトに立つ僕と月の
間には何もないって知った

サカナクション-ナイトフィッシングイズグッド

 この歌詞から、この頃の山口の実在論的な立場が見て取れる。
 簡単に説明すると、実在論とは、名指される物質や外界、概念や観念がそれ自体として実在するとする立場のことである。私の見識ではこれに反する立場は「非」実在論としか言われないのでそれらを一般化する事は憚られるが、物質や外界で言えばプラトンの「我々が見ているものは霊界にある本物の実在を映した模造品に過ぎない」とするイデア論や、概念や観念で言えば倫理規範や価値観に絶対的なものはなく、環境や先天性の性質によって変わるとする相対主義などがある。本当の物や事など私たちには認識できないかそもそも存在しない、私たちにできるのはそれらを映して見ることや仮定することである、とするのが非実在論的な立場だ。
 それに対し、山口は主観である「僕」と名指される対象である「月」の間には「何もない」と言う。イデア界も環境の働きもない。これは、物質や外界はそれ自体として存在しており、それ自体が私たちに認識されているという態度だと言っていいだろう。
 説明の蛇足になるが、そのように考えると「セントレイ」のこの歌詞などは、具体的な科学的実在論の主張のようにすら見える。

千の最後までほら 手で数えたら
見えてきたんだ 見えてきたんだ
1000と0と線と点の裏 重なる世界
僕と君が繋がる世界

サカナクション-セントレイ

 皆が1から1000、最初から最後までを手で数えると重なり合った共通の部分があり、それが僕の君の繋がる実在の世界であると山口は言っているように筆者には見える。
 「セントレイ」のこの見方が合っているかはともかくとして、山口は、世界について実在を信じており、それを見る主観としての自分がいる、という見方を長く保持しているのは確かであると筆者は考える。
 さて、そのような見方をする山口にとって「夜」とはどのようなものだろうか。初期においてそれは、決して明るいものではなかったように見える。

悲しい夜の中で
踞って泣いてたろ

サカナクション-白波トップウォーター

夜が 夜が僕らを試してるな

サカナクション-ワード

溜め息はひとつだけ
君と僕の夜空が 悲しく曇ったんだ
透き通る君の声 夜の風で消えた
僕は目を閉じたんだ

サカナクション-ワード

今煙の中を歩き続けて
寂しくなる夜を抜けて

サカナクション-セントレイ

眠れない 眠れない夜を
すり減らして爪を噛んでた

サカナクション-ルーキー

 山口にとって、夜は寂しく悲しいものであった。実在論的な立場を取る山口にとって世界が実在することは確かだが、それを自らが知覚できるかどうかは確かではなかった。「曇る」「煙」という語がつくことから分かるように、そのことの象徴が「夜」だ。光が消え音が鳴り止む時間であり、つまり「夜」とは、自らが実在する世界を知覚するための材料が減る時間のことである。この単に日が没している数時間のことではなく「外界を知覚できず実在を確かめられない時間」のことを、本記事で「夜(a)」と呼ぶ。
 そして山口は自身が物事を忘れていくということに対しても敏感であった。

正しく君と揺れる 何かを確かめて
声を聞くと惹かれ すぐに忘れ つらつらと
気まぐれな僕らは 離れ離れ つらつらと
覚えたてのこの道 夜の明かり しらしらと
何が不安で何が足りないのかが分からぬまま

サカナクション-アルクアラウンド

気まぐれな君の色
部屋に吹くぬるいその色
壁に鳴り痺れるチェロ
すぐに忘れてしまうだろ

サカナクション-バッハの旋律を夜に聴いたせいです

消えた消えた 君が消えた 蜃気楼みたいに
にわか雨の 音も消えた さよなら言うように

サカナクション-夜の踊り子

 実在するはずの世界が知覚できず、確かめられず、記憶が薄れていく悲しく寂しい時間。それが初期の山口の言う「夜(a)」であった。
 だから、山口にとって「夜(a)」とは乗り越えるべき対象であった。

ラララ きっと僕が躍り暮れる
夜の闇に隠れ潜む
ラララ ずっと僕が待ち焦がれる
恋のような素晴らしさよ

サカナクション-ナイトフィッシングイズグッド

悲しみの終着点は歓びへの執着さ
藍色の空が青になる
その時が来たら聴かせてよ いつか いつか
君の声を聴かせてよ ずっと

サカナクション-目が明く藍色

 「目が明く藍色」までのサカナクションは、「夜明け」を切望していた。世界の実在を知覚する材料が豊富にあり、それらを再確認できる朝が来ることを至上の歓びとしていたのである。

2-b.「自分らしさ」に注目した山口一郎の実存主義的な態度と「夜(b)」について

 しかし「目が明く藍色」は朝を切望すると同時に、それを批判的に見る立場が初出した曲でもあり、そこがこの曲の興味深いところである。ミュージックビデオでは「目が明く藍色」「アイデンティティ」二曲続けて「らしさ」という語が出てくる。「目が明く藍色」から始まったこの語に関する考察が、山口の「夜」に対する考えを変えたと言っていい。

立ち止まってるだけの僕らしさなんて
すれ違ってく人は気づくはずもないんだ
光はライターの光
ユレテルユレテル
つまりは単純な光
ユレテルユレテル

サカナクション-目が明く藍色

 この部分で、山口は世界の実在を確かにしてくれる光(先ほどは朝と言った)は単純なものであり、それを切望している自分自身を立ち止まってるだけだと言い捨てている。そしてそこには「自分らしさ」など見出されないと言っている。続いて「アイデンティティ」では、このようには言っている。

取りこぼした十代の思い出とかを
掘り起こして気づいた
これが純粋な自分らしさと気づいた

どうして時が経って時が経って
そう僕は気づいたんだろう?
どうして見えなかった
自分らしさってやつが解りはじめた

サカナクション-アイデンティティ

 ここで山口は、アイデンティティ(自分らしさ)とは、思い出のことであると気づいたと言う。自分らしさとは、朝を切望し夜を寂しく過ごす時間によって作られるのではなく、過去の思い出を掘り起こすことで見えるものであるというのである。

 この「自分らしさ」に気づいた山口は、「エンドレス」あたりから、実存主義的な態度にシフトする。実存主義は簡単に言うと「普遍的・必然的な本質存在に相対する、個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張する思想」であり、要はここでは主観は実在する外界・物質に優越するという考えだ。これは、次のような歌詞に見られる。

見えない夜に色をつける
声は誰だ

サカナクション-エンドレス

見えない世界に色をつける
声は僕だ

サカナクション-エンドレス

この世界は僕のもの
どこからか話してる声がするよ
すぐに何かに負けて涙流す
君と僕は似てるな
愛の歌
歌ってもいいかなって思い始めてる
愛の歌
歌ってもいいかなって思い始めてる

サカナクション-ドキュメント

僕の目一つあげましょう
だからあなたの目をください

サカナクション-僕と花

 世界は実在するという立場が変わっているかはここでは分からない。しかし、それに「世界に色をつけるのは僕」「この世界は僕のもの」だと言っているように、世界に対する自分自身の優越性を見出していることは分かる。
 「目を交換する」という幻想も、ただ世界を認識することを至上としていた「夜(a)期」では生まれなかったであろうものだ。世界に対する主観の優越性があるから、そこには個別性・差異がある。
 では、その個別性と「夜」はどのように関係しているだろう。

夜が手を伸ばしそっと引っ張って
何度も言おうとしてた言葉は
歩き出した僕の言葉
それだった

サカナクション-僕と花

雨になって何分か後に行く
今泣いて何分か後に行く
今泣いて何分か後の自分
今泣いて何分か後に言う
今泣いて何分か後の自分
笑っていたいだろう

サカナクション-夜の踊り子

いつだって僕らを待ってる
疲れた痛みや傷だって
変わらないままの夜だって
歌い続けるよ
続けるよ

サカナクション-ミュージック

探してた答えはない
此処には多分ないな
だけど僕は敢えて歌うんだ
分かるだろう?

サカナクション-グッドバイ

 「夜(a)」とは耐え忍び乗り越えるべき対象であった。しかしここでは、夜でもできることはあり、その一つは言葉を作り歌を歌うことであると比較的前向きに捉えている。夜にすべきことをすることが、朝を迎えるために必要だという達観した考えだ。

さよならはエモーション
僕は行く ずっと涙こらえ こらえ
忘れてたエモーション
僕は行く ずっと深い霧の 霧の向こうへ

さよなら僕は夜を乗りこなす
ずっと涙こらえ こらえ

忘れてたこといつか見つけ出す
ずっと深い霧を抜け

サカナクション-さよならはエモーション

ほら終駅着き走り出す
なぜか心の奥に君はいました
白い息白い息吐きながら想う
だけど終電過ぎ自由になる
夜は心へ僕を閉じ込めました

サカナクション-スローモーション

 そして「さよならはエモーション」では、「夜を乗りこなす」という語が出てきて、「スローモーション」では心へ閉じ込められる夜のことを「自由」だと言っている。「夜」を乗り越えの対象ではなくそれ自体価値のある時間だと肯定的に捉えられるようになっていることが分かるだろう。
 このように「思い出という自分らしさを取り戻すための有意義な時間」としての「夜」をこの記事では「夜(b)」とする。

夢みたいな夜の方
千年に一回ぐらいの月を
永遠にしたいこの夜を
そう今も思ってるよ

サカナクション-忘れられないの

このまま夜になっても
何かを食べて眠くなっても
今更寂しくなっても
ただ今は思い出すだけ

サカナクション-ナイロンの糸

この海にいたい
この海にいたい
この海に帰った二人は幼気
この海にいたい
この海に帰ったふりしてもいいだろう いいだろう

サカナクション-ナイロンの糸

 「夜(b)」に対する山口の態度は加速度的に前向きになっていく。「忘れられないの」では、あれほど明けることを望んでいた夜が永遠になることを望んですらいる。あれほど悲しい、寂しいと言っていた夜に対して、「ナイロンの糸」では「ただ今は思い出すだけ」と達観して思い出という自分らしさにコミットしている。

2-c.最近の山口の「夜」について

 ここまで「夜(a)」と「夜(b)」があることを説明したが、まだこの二つの関係性については説明していない。それらは両立しているかもしれないし、していないかもしれなかった。「夜(b)」を加速度的に愛していく山口は、「夜(a)」をどのように捉えるようになったのだろうか。

僕はまだ 多分目を閉じてる
だから今笑えるのか
この風が悲しい言葉に聞こえても
いつかそれを変えるから

この夜は目を閉じてみた幻
いつか君と話せたら
僕が今感じてる この雰囲気を
いつか言葉に変えるから

サカナクション-プラトー

 「プラトー」では、「夜(b)」によって「夜(a)」を乗り越えようとする姿勢が見られる。思い出によって自分自身というものを強化し、「夜」を悲しいものではないと捉えられるかもしれないという立場である。

夕方に酸っぱいサイダーを
急に飲みたくなった
哀れな僕は
もう
何も感じはしない

ショックが足りない今日も
ゆっくり固まる感情
哀れな僕は
だんだん
機械になるだけ

サカナクション-ショック!

 反対に「ショック!」では「夜(a)」の何もなさを再認識している。ショックが足りなければ感情が固まるというのは、実在を知覚する刺激がなければ思い出もマンネリ化したり忘れられたりして自分らしさというものがなくなっていくということだろう。
 
 ミュージックビデオでは最新曲となる「月の椀」でも山口は夜(a)と夜(b)の関係性について語っているが、少々アプローチの方法が違う。

悲しい冷たい風
冬のアスファルトの上を泳ぎ

街に黙り込んでた
信号機の色を
青に変えてくれた

君の心が
月の心が
重なり合って見えたの

サカナクション-月の椀

 この悲しい冷たい風とは、夜の風景だろう。冬のアスファルトとは、最初に言ったような主観としての自分である。その二つが合わさることで、信号機が青になる、つまり前に進めると言っている。
 さらには、名指される対象としての君と、何も名指すことのできない状況を指す夜が重なり合っていると言っている。
 山口は、「夜」によって私たちがすべてを見ることができないという状況が作られることと、それでも対象を定め名指す主観という、この二つが合わさることで前に進むことができると言っている。
 ここで「夜(a)」と「夜(b)」は、互いに跳ね除け合うことなく調和する。「夜」の私たちの知覚の限界を提示する性質と、私たちに思い出を想起させることで自分らしさを定めさせるという性質が合わさり、私たちは世界の中で自分らしく朝を迎えることができるのである。

3.さいごに

 ここまで論じて来たように、サカナクションの使う「夜」という語は、初期には私たちの知覚を制限し実在を奪う悪しき時間であった。その後「夜」は「思い出」という自分らしさを想起するための有意義な時間であると再認識された。そして最新の山口には、その二つの性質はどちらも必要不可欠なものであり、「朝」と「夜」の両方がなければ私たちは自分らしさを持って生きることはできないと主張されていると筆者は考える。
 ここから、サカナクションは「夜」についてどのように歌うのだろう。はたまた、「夜」というモチーフを捨てるのだろうか。どちらにせよ、筆者は注意深く聴くつもりである。

 最後に直近に書いた星野源の詞についての記事を貼ってこの記事は終わりとする。

(p.s.「蓮の花」という楽曲については最後まで分からなかった。なぜ「夜(b)」についてあれほど加速度的に前向きになっていっていた山口が古く寂しい「夜(a)」のモチーフを引っ張り出して来たのだろうか。この点について説明するのは、筆者には力不足であった。)

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