『好き』の本質

先日、彼女に「わたしのどういうところが好き?」と聞かれたのだけども、すぐに返答ができなかった。
好きなところがないから答えることが出来なかった、とかではなく、単純に何かを好きになった体験が過去に無かったから答えが分からなかった。

子供の頃、よく周りから「好きな食べ物は?」とか「好きな教科は?」とか好きなものを聞かれることが多かった。
僕は『好き』という存在しない概念を理解するのが苦手だった。
食べ物に関して言えば、『好き』とは『美味しい』と同義なのだと思うけれど、そもそも好き嫌いがないから、食べ物はどれも同じレベルの味覚だった。
子供の頃は、「好きなものが分からない」と答える勇気が無かったから、いつも便宜上「メロンとカレーライス」と答えていた。
何故、そう答えていたのかというと、子供が好きなものといえばカレーライスだから、そう答えておけば皆、納得すると思ったからだ。好きな女優は?」と聞かれて「安定のガッキー」と答えるのと同じだ。「安定の」と付けて答えればなんとなく笑いになってその場を凌げる。
メロンに関しては、子供の頃、毎年夏になると母方の実家からメロンが送られてきて、それを食べるのが楽しみだったからだ。味のことなんて、気にしてはいない。なんか高級なものがその時期だけ食べられるという特別感が子供の自分には嬉しかったのだ。
思えば子供の頃から、相手を納得させるエピソードを語ることを考えていた。他人の目しか気にしていないのである。ある意味すごい。

そんな子供だったから、『好き』がよく分からなかった。だから、なんとなく続けていたものを『好き』と言うようにしていた。
小学生の頃は、ドッジボールばかりしていたから周りから「ドッジボールが好きなんだね」とよく言われていた。中学に入った時には「ドッジボール部作るんでしょ?」とかイジられるレベルだった。だから、僕は「ドッジボールが好き」と答えるようにしていた。

僕は小学生の頃、ドッジボールがやりたかった。何かに取り憑かれたように、とにかくドッジボールがやりたかった。みんながドッジボールから飽きてるときも1人で壁に向かってボールを投げ続けた。何故かは分からない。1人でボールを投げていると、それを見かねた友達が相手をしてくれた。
あの頃、僕はドッジボールが好きだったのだろうか。『好き』だから、あそこまで情熱を持って取り組めていたのだろうか。でも、別にドッジボールが上手かったわけではないし、ドッジボールについて詳しかったわけでもない。中学生以降は、ドッジボールをやる機会もなくなった。大人になってから数回、友人とキャッチボールの要領でドッジボールをやる機会があったけども「懐かしいな」という感想しか浮かばなかった。

『好き』とは一体何なのだろうか?

『好き』を辞書で引くと
「心がひかれること。 気に入ること。 また、そのさま」
とある。

心が惹かれる。
逆に意味として難しくなっていないか?と言いたくなるけども、それほど『好き』とは単純な感情なのだ。単純故に真剣に考え始めると厄介だ。

僕が何故ここまで『好き』について真剣に考えているのかというと、冒頭の彼女からの質問に然り、大人になってから困る場面が増えてきたのだ。

子供の頃のようにテキトーな理由をつけて質問に答えることが、大人になるにつれて難しくなる。というか不具合が生じてくるのだ。仕事にしても恋愛にしても、本気で『好き』について追求して考えないと自分の人生に影響が出てくるのだ。
そこまで好きではない人と結婚したら、やはり楽しくはないし、仕事も同様だ。
もちろん、ただ『好き』というだけで充実出来るのかといえば、そうではないのだけど。
仕事に関しては労働時間や給料、通勤時間、人間関係など労働環境や雇用条件も充実度に影響してくる。お金がなくても好きなら良いというのは、まだ自分には理解が出来ない。僕は少なくともそこまで好きだと思えるものに出会っていないし、その考えに至ったことがない。憧れはあるけど。
やはり、大人になってからも子供の頃と同じで周りの反応を気にしてしまっている。
良い人だと思われたいから福祉の仕事をやっているし、利用者様や家族から「ありがとう」と言われることが仕事のモチベーションだったりする。
福祉が好きだからではない。
だから、『好き』が何なのか分からなくなってはいるのだけど。

僕はよく「好きなものは?」と聞かれると「漫画、スポーツ、お笑い」と答えるようにしている。理由は、どれも昔から継続できているものだから。
漫画は、小学3年生の頃、1年間耳鼻科に通っていた頃に毎週病院で読んでいた。耳鼻科の治療は鼻にチューブを入れたりするから嫌だったけど、漫画が面白かったから通うことが出来た。母親が受付をしたり支払いをしているときも漫画を読んでいた。小学2年生のときに仲良くなった友達が漫画を描いていたことも大きな影響かもしれない。いや、家にドカベンが全巻あって片っ端から読んでいたからかもしれない。とにかく漫画に囲まれる生活をしていたから、昔からよく漫画を読んでいた。ただ、小遣いを貰っていなかったから、自分で漫画を買うことが出来なかった。それもあって、特別視している面もあるのかもしれないけれど。

スポーツに関しても、そうだ。小学生の頃、みんながスポーツ少年団に入る中、僕は親に反対されて入ることが出来なかった。スポーツをやってる奴がカッコいいという風潮があったから、本当は何かスポーツがやりたかった。あと、みんなと仲良くなりかったから、一緒に何かをする体験が恋しかった。

お笑いに関しても似たようなものだ。僕は子供の頃、真面目だったこともあり勉強がよく出来た。そのせいもあって、優等生キャラがついていたこともあり、小学生らしくふざけると友達に引かれた。クラスでふざけている道化が羨ましかった。
だから、お笑いをよく見ていた。ふざけることも勉強していた。今思えば「お前、そーいうとこだぞ」って言いたいのだけど。根が真面目なんです。

なんとなく続いているものって、何かしらエピソードがあって理由があったりする。そして、それは僕の場合『憧れ』からきている。「こういう人が羨ましい!なりたい!」その想いで続いているものばかりだ。
彼女がいることも、彼女がいる方がステータスが上がったような気になるからだ。
スポーツをやっている人はカッコいいと思うから。
良い歳こいて夢を追っているって、一見ダサいけども、でも自分に酔えるから気持ちいい。だから漫画を描いている。
お笑い芸人の生き様はカッコいいから。つい見てしまう。

純粋な『好き』という感情では動けない。
いつだって、それ以外の感情によって、僕の行動は引き起こされる。
『好き』って何だろうか?

彼女にどんなところが好き?と聞かれた時、僕は素直に答えることが出来ない。
普段人に聞かれた時は「優しい」「面白い」とか端的に答えるとか冗談を言って場を濁すかもしれない。
ただ、彼女に対しては、それをしなかった。

嘘を吐くのが嫌だった。

真剣に向き合うべきだと思った。

自分のこの『好き』が分からないという感情も含めて伝えるべきだと思った。それが交際という関係において、相手に対しての誠実さだと思うから。

別に生きていく上で、ここまで真剣に『好き』について考える必要なんてないのかもしれない。
「なんとなく好きだなぁ」なんて思ったら『好き』ってことにしておけば良いのかもしれない。
『好き』なんて単純な感情だから。その言葉に深い意味なんて、そもそも存在していないのだから。
でも、その『好き』に関して他者も干渉する場合は、少しは真剣に考えても良いのではないかとも思う。

『好き』は理屈ではない。
きっと感覚的なものだ。

だから、頭で考えて答えが出るものではない。
それが、ここまで文章を綴ってきて思ったことだ。

3000文字の文章では、少なくとも答えには辿り着けない。

でもね、思うんですよ。
『好き』は分からなくても『楽しい』とか『嬉しい』とかは分かるわけで。
美味しいご飯を食べたら気持ちいいし嬉しい。
カラオケで歌を歌うのは楽しい。
野球でフライを捕れたときは嬉しいし、バットにボールが当たるのも嬉しい。
絵がうまく描けたら嬉しいし、自分の作品を誰かが呼んでくれたら嬉しい。

そんなポジティブな感覚の積み重ねが、なんとなく感覚として『好き』として現れる。
そのとき、初めて自分の中で『好き』というものを定義出来る。

だから、まー、何だろう。
結論としては、『好き』になるまで続けることなのかもしれない。

最近、人間の感情というのは極めて科学的だという話を聞いた。というか現代科学において、ある程度、情動については研究が進んでいるらしい。
脳の仕組みは複雑なようで、その反応には法則性があって、つまりは人間の感情、行動にも一定の法則性があるという。
そして、繰り返し行うことによる『学習』という機能が人間には備わっている。

要は先ほど話した話だ。
継続、反復による強化だ。

続けていれば、ふとしたときに気づく日が来るかもしれない。

ま、周りの人からしたら「お前、漫画もお笑いもスポーツも福祉も彼女も全部好きじゃん」って思うだけの話なのかもしれないけど。

自分が納得できるまでは。
まだ、好きにはなれない。

かな。

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