四月になれば彼女は(2024)

試写会にご招待いただき、鑑賞いたしました。

映画が終盤に近付くにつれ、あちこちからすすり泣きの声が聞こえてきました。
隣の女性なんか鼻水ズルズルで、思わず二度見しました。
一方、私はうるっともできず、一生懸命頭を整理していました。

・なぜ、春は手紙を送って来たのか
・なぜ、藤代は手紙に対してリアクションしなかったのか
・なぜ、弥生には春の手紙の意味が解ったのか

プロット上重要と思われるポイントに関する疑問がどうしても解けず、意味がわからないのに感動するわけにはいかないと思う自分の理性の方が勝ってしまっていました。

私が最も苦しんだのは、「藤代の人物像がつかめない」ことでした。
彼の言動に一貫性がないように思えたからです。
勉強はできるが人としては凡庸で、両親の離婚をきっかけに人に対する興味を失った大学生が、殆ど初対面に近い後輩に
「どんな写真を撮るんですか?」
と訊かれて、
「ポートレート以外」
とは答えないと思います。

また、私の目には、藤代は必死に弥生を探しているように見えました。
なのに、弥生の妹や同僚の医師、行きつけのバーのバーテンダーからは、
「弥生のことも自分のこともなんにもわかっていない」
と戦犯呼ばわりです。
気の毒すぎます。

精神科医であっても、人は自分のことはよくわからないものです。
むしろ精神科医だからこそ、「自分は自分のことをよくわかっていない」ことを知識として知っているわけで、何もかもわかったように錯覚している我々に比べればかなりマシ、わからないことをわかっているから、人との距離が少し遠めの人なのだろうと、自分に言い聞かせていました。

鑑賞後のティーチインで、原作者の川村元気さんが、「自分も藤代には感情移入できない」とまさかの心証開示されてバカウケでしたが、私は「私の2時間を返せーっ」(または、「やり直しさせろーっ」)と思いました。
私はこんなにも藤代のことを理解しようとがんばったというのに。
佐藤健さんはワケもわからず与えられた役を演じるような俳優さんではありません。
必ず何かある。
何かあるはずなのにわからないのが悔しくて、ずっとずっと藤代の姿を追っていました。
感情移入どころの話じゃありません。
ほぼストーカーでした。

川村元気さんは、ご自身もfilmarksの会員で、匿名で「辛口のレビューも書いている」と仰っていました。
なので、私も遠慮なく書きたいと思います。

映像化に際して原作がないがしろにされる傾向があることが問題になっていますが、川村さんの場合は逆です。
原作者自ら、小説と映像作品によって「一つの主題で二つの作品を作る」という冒険を楽しんでおられます。
しかしこれには守られなければならないルールがあります。

・原作を読んでいなくても必要な情報は全て説明された映像作品でなければならない
・原作を読んでいる者を裏切ってはいけない

この二つです。
しかし、映像化に原作者が深く関れば関わるほど、「説明し忘れ」に誰も気づかない、ということもあるのではないでしょうか。
この作品には、それがあったのではないかと思いました。

色々なことがわからないままですが、この作品が伝えようとしているのが「幸福論」であることは解りました。
「愛を終わらせない方法、それは何でしょう」
二つの答えが提示されて、ドキッとしました。
私は既につかんでしまっており、サボりすぎているからです。
サボらないってどういうことなのか、これも答えは暗示されています。
キリンの睡眠時間が本当に知りたいのなら、ggrks。

辛口が過ぎたかもしれませんが、それくらい「一生懸命観ていた」とご理解いただければ幸いです。

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