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瞑想と葬式をいっぺんにかなえる映画『川っぺりムコリッタ』

ごきげんよう。雨宮はなです。
ちょうど私が試写会の応募を全くしなくなった時期に募集をしていた作品、それが『川っぺりムコリッタ』でした。

大好きな『かもめ食堂』の荻上直子監督作品、ならば試写会でなくても観に行くだろうとゆったり構えていました。
上映が開始され、スケジュールもうまい事都合がついたので上映2日目に早速観てきました。

荻上監督は裏切らない

「裏切らない」だなんてずいぶんと上からな言い方をしてしまいましたが、それがしっくりきたのです。
監督の持ち味が今回も惜しみなく、たっぷり含まれていたのでした。

①まぶしすぎない明るさ
②おとぎ話なのだとわかる特徴的なキャラクター
③スクリーン越しに匂いを感じられる食べ物

私が思う荻上監督作品の特徴はこの3つ。
まだ全部を鑑賞したわけではないですが、そう認識しています。
「清貧」を描くのが上手な人で、そして、はぐれ者を人として扱ってくれる人だとも思います。

ハイツ・ムコリッタに住む人たちはまさしく令和のはぐれ清貧者たち。
荻上監督はそんな人たちを無責任にヨシヨシするのではなく、「こういう人もいるよね」「こんな人もいるんだよ」と静かに提示します。
そしてそれが、“いる”と認めていることなんだなあと改めて思うのでした。

世界はぐれ者だらけという安心感

「“ふつう”って誰が決めたんだ!」
「“らしく”あっていいじゃないか!」
なんて声高に叫ぶ一方で、いまだに就職活動に精を出す人がいたり、耳障り良くした言葉で稼いだ大金を自己投資に使った将来は非常に本能的なものだったり、結局雨ニモマケズ風ニモマケズ通勤や登校をしてみたり。
“今まで”と変わらない人たちがメジャーな世界。

“今まで”の“ふつう”はつまり、ハイツ・ムコリッタに住む人たちの反対だと思えば良いでしょう。

どんな理由であれ、片親は認められないのです。
どんな理由であれ、定職に就いて働いていないと認められないのです。
どんな理由であれ、前科者は認められないのです。

そんな“ふつう”でいるために、キリキリしているのが現代の日本。
でも、ぶっちゃけ、それは現実ではないんだよなあ。

出ていかれたり先立たれたりで片親になることは、誰にでもあり得る。
定職に就くのが難しいなんてことは、誰にでもあり得る。
うっかり前科者になることは、誰にでもあり得る。

世界ははぐれ者だらけなんだよ、これはおとぎ話じゃない部分だよ。
あなたが自分に感じる「はぐれ」もちゃんと現実だよ。
あなたは現実に生きているし、あなただけじゃないんだよ。
…そんなメッセージが込められているんじゃないかしら、と期待してしまいます。

この作品を鑑賞することが瞑想であり、葬式だ。

キャラクターたちを眺めながら、記憶や感情の整理をしている自分に気が付きました。
映画を観ているのに、自分と向き合っている。
頭と心がフルスロットル状態でした。
「これ、瞑想なんじゃないか」って気づいたのは映画館を出た後だったのですけど。

「お葬式だなあ」と思ったのはラストシーンに入ってから。
山田の父親の葬式に“自由”と“らしさ”を感じながら、自分もそこに参列したような気持ちになりました。
同じような気持ちの人たちが多かったのか、はたまたマナーが良い人だらけだったのか。
エンドロールで席を立ったのは、ひとりだけでした。

自分の中にある”社会では歓迎されない「何か」”を見つけて弔って手を合わせる。
無かったことにするんじゃない、向き合ったからこそ手を合わせられるのだと気づきました。

おわりに

鑑賞を終えてシアターを出た後、すぐに売店に飛び込みました。
パンフレットと原作小説を購入したかったのですが、置いてあったのはパンフレットだけ。
できれば、原作小説は売っててほしかったなと思いつつ、Amazonで注文しました。

すぐに読み終えてしまったのですが、映画が脳裏で再上映されたり、違う表現に「おおっ」となったり…素晴らしい小説でした。
映画館で鑑賞→小説を読む→映画館で鑑賞…が良いコンボだと思いました。
間にパンフレットを読むというコマンドもはさみつつ。

瞑想と葬式をいっぺんにかなえる映画『川っぺりムコリッタ』は、9月16日(金)から全国ロードショー中!

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