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金木犀の香りは、罰だと思う

「あの消防署の手前の道、金木犀の香りがするね」
仕事から帰宅した男が言った。
わたしは寝転んだソファから「へえ、そうなんだ」と返しながら、(このひと、情緒あるんだな)などと失礼にも意外に思ったりした。
後日スーパーからの帰り道、その場所を通ってみると確かに彼の言う通り、金木犀の香りがした。辺りを見回してみたけれどそれらしい樹が見当たらない。その夜、男に「あの道、金木犀の匂いがしたね。でも、金木犀の樹を見つけられなかった」と言ったら「うん、そうなんだよ」と答えた。

今の時期、夜道を歩くと金木犀の香りが鼻をくすぐる。そのたびに、彼のことを思い出す。
また1年が経ったと思う。そしてこんな時期まで、あの男はわたしと一緒にいてくれたのか と、いつもすこしの驚きをもって受け止める。初夏に出会った男と過ごした時期は文字通りの一瞬だったように、わたしには感じられるから。
男とは劇的に出会い、ほんの僅か付き合ったのちに劇的に別れ、その後すこしのあいだ、ただのヒモをさせていただいていた。毎朝男の家で目覚め、男の家のソファで死んだように昼間を過ごし、夜は男と一緒に眠った。申し訳ない間柄だったし男にとって非常に迷惑な存在だっただろうからもう記憶から削除してしまっていることと思うが、わたしはごくごく真面目に、愚かながら大好きだったし(そして今も大好きだ)、男に対してどんな酷いことをしでかそうと、身のほど知らずに愛していた(それも、今も変わらない)。そして驚くべきことに、わたしは日々が本当に幸せだったのだ。金木犀の花言葉に「陶酔」があるように、非現実的なその時期に、わたしはひとり、男の心を踏みにじりながら酔いどれていたのかもしれない。

匂いは記憶をより強く思い起こさせるというが、それはウソだと思ってきた。歴代の恋人の香水なんて、銘柄は覚えていても香りまでは覚えていないし、そもそも易々と他人と被る香水を使っているような男なんてイヤだし。
でも、でも、金木犀の香りだけは別だったなと、ほろ苦さよりももうすこし濃い苦みを、罰だと思って噛みしめる毎年である。

そんな彼も最近結婚したらしいことを、金木犀の香りを運んでくる風の便りに聞いた。
今、わたしが何を言おうと呪いにしかならないと思うから、祝いの言葉は綴らない。
ただこの些末な文章を書くこと、そして二言だけ残すことを、許してもらいたい。

ありがとう。そして、ごめんなさい。

オレはどうしようもない人間だけど、文章を読んでくれる人がいるから生きていられます。もし、サポートしてもらえたら、きっと寿命を延ばすために使います。重いってか?これがオレだよ!