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翠の雨が降る頃に。【04】

今日はあっちに座ろうかな。
そう言って彼は、いつもの差し入れをした後に奥のソファの席へ向かった。

はぁい、なんて緩やかに返事をして、目線で彼を見送る。

お客様は、様々な目的でお店へいらっしゃる。譜面依頼はもちろん、お喋りや、寛ぎの時間に、人に会いに、待ち合わせに、様々な用途に当店をご利用いただいている。(日々、感謝感謝である。)

例えば、常連の廃墟カフェの店長さん。
彼女のお店とは、私がお店を開くかと決めあぐねていたころに出会った。
ずば抜けたセンスの内装と、穏やかな接客に感激したのが、まるで昨日のことのように思い出せる。最近は地下がお気に入りのようで、来店してすぐ下に降りていくことが多い。

例えば、同じく常連のお二人。
ミコッテ族の男性と、……もうお一方は、夢か幻か、姿を変えることのできる薬品を使って、よくお姿を変えて来店されることが多い。けれど、必ずお二人で来られ、向かい合って基本的には穏やかに寛いでいただいてる。(もちろん、時には周りとご一緒に談笑されていることもあり、私はそれもとても嬉しいのだけれど!)

このように、静かにお過ごしになるお客様は、決して珍しいわけではない。
彼もまた、よく考え事をするために後方の席へ座ることがある。
そういう時は、必ず真剣な表情をしているのだ。

きっと私の知る由もないようなことなのだろう、指を組んで目を閉じて考えている。その席にだけ置いてある煙草の煙が、彼を包んでいく。いっとう彼のまとう雰囲気が、つかめない 雲のような 輪郭がない……ううむ。なんと表現すればいいのだろう。

ゆれる とける 流れる ……波のような。

そう、波のような彼を、煙が幻のように連れていく。
褐色の肌と髪が、薄暗がりの中に溶けていってしまう。

そんな彼を、現実に戻し、はっきりとさせるのが曲を変える時。

その時だけ、閉じていた目が開き、浅瀬の透き通るような瞳がきらりと見える。
俯きがちな顔が上がり、髪の毛がさらりと流れる。そして、空を眺めるのだ。まるで曲を視線でなぞるように。少し口角を上げると、いつも通りの彼
の表情になる。

「ああ、やれやれ。考えるのも疲れちまった。珈琲一杯くれないかい?」

そう言って彼はカウンターへ戻ってきた。


はぁい、と私は返事をして、珈琲を作りに席を立った。

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