見出し画像

仕事 VS わたし VS ザ・ワールド

今の仕事観は「お互いによりよいところを目指すためにやれることを探していくもの」なんだけどね。
と書くのも仕事観って小さい頃の環境からの刷り込みで序盤が大きく変わってくると思っているから。幼少期の自分が持っていた仕事像って「苦しく、つらいわりに実入りにならない」ものだった。そして、その認識は変えられるものだと分かったのも結構後になってのことだった。

一番よく見ていたのが父親だったからだな、とは思う。父親が一番嫌いな大人のロールモデルになってしまった寂しい大人の言うことなので、以下は適当に流して聞いて欲しい。
父親は金の卵として就職した世代だ。金の卵とは言うが、安く地方人材を買い叩いただけだってことは時代と地域を変えて似たようなことをしている今を見ていればよく分かる。福岡に就職したかったと言っているのだからそのまま本州に来なければ良かったのにと思っていた。
今の仕事が好きでもないのに転職するわけでもない。かといってお給料に直結するはずの資格勉強の話をするとヘラヘラしている。遊ぶには困らない中心地で働いているのに、ほとんど毎日まっすぐ帰ってくる。会社で何か面白いトピックを作ってこれるわけでもないのに、帰ってこなくて良いのにと思っていた。別に仕事のうちで仲の良い人がいるわけでもないらしい。だから家にコミュニケーションのケアを全部投げてくる。お酒をたくさん飲むうえに、昭和の九州の山奥から出てきた人間にモラハラが備わっていないわけもなく、家庭はむちゃくちゃであった。ついでに言うと話が面白くないのも最悪だった。会話の分岐が下手くそ、ポジティブな会話がなんにもできない。人の儲けの話ばかりに繋げていく。会話の相性が最悪すぎて私の人生に可能な限り関わらないで欲しかった。
実入りがなくて学費が足りなくなって母親がパートタイムで働くようになったのは父親のせいなのに、家庭の労働を長く全部自分以外に押しつけていた。こいつの葬式もやりたくないし、結婚式にも呼ばないと本気で思っていた。一方で離婚をしたいのにめんどくさいで片付けて子供の人生を自分のめんどくさい以下にした母親のことも時々思い出したかのように許せない瞬間が出てきたりはするのだけど。まあ、今となってはそんなこともあったねと思うくらいだから聞き流して欲しい。

周囲の大人にはピアノの先生とか、水泳教室の事務員さんとか、いつも明るい美容師さんとか、事業やお店を始めた人とか、楽しそうに働いている人もたくさんいたのに父親憎さで見えていなかったのだと思うことにしている。怒りは視野を狭める。SNSなんていつでも見返せてしまうような場所に怒りなんて書かない方がいい。運動とかして忘れた方がよっぽどいい。早く気づけば良かったと思うけれど、今気づいているのだから良しとしようとも思う。

だから自分でバイトなどして働き始めた頃も、仕事とは怒りと隣接しているものだった。仕事なんかしたくない、けれどお金がなければ何にもできないから仕事をする。一種のテンプレートにはまってしまっていた。みんな嫌いだと思っている人間の周囲には似たような人間が集まるし、どんな環境にいても世界はどす黒い。一方でこの環境に適応しなければ、自分は見下している仕事すら満足にできないと考えていたと今なら思う。見捨てられ不安に近いものだろうか。振り返れば大仰に考えすぎているのだけど、日常に怒りが充満している人間の考えている規模なんてそんなものだと思う。

認識が徐々に良くなってきたのは就職してからだろうか。お仕事を自分で試行錯誤できる業務をあてがわれるようになってから、自分と相手がいて初めて仕事であって、いくらでも楽しくできるということに気づいた。
当時は接客業だったのだけど、接客とはロールだけどロールではなく、タイマンとして接すれば、相手に上手く乗ることができれば、お互い心地よくいられるとも気づけた。自分からシステムとして動いてしまうからメンタルがやられてしまう。TPOと共存して、ジョブであることは守りつつ自然体で良いのであればレジを打つことも楽しい。DMひとつ作ることも、その先に誰かがいることを想像できていれば楽しい。

転職を経てお仕事は楽しいのフェーズに入った。楽しいというよりは居心地良く生活と共存できているという感覚。仕事と暮らしをバッサリ分けるタイプではいるけれど、暮らしに仕事が多少めり込んできても苦ではないし逆もそう。接客業ではなくなったけれど、お客さまと直接やりとりをする業務ではあるからやりとりの難しさにずっと頭を巡らせていられる。良いバランスでいられていると思う。
自分の技術を育てることの難しさにもぶち当たって、少し資格試験でヘラヘラする父親のこともまあそんなもんかという見方を増やせるようになった。思考を180度変えなくて良い、見方の引き出しを増やせば良い。根っこに怨念のようなものがあってもそれはあくまで一つの経験で、自分から楽しい経験を探して作っていけばいつの間にか怨念を追い越す。そこにいたるまで七転八倒するかもしれないのだけど。

いまの仕事観は「お互いによりよいところを目指すためにやれることを探していくもの」

すごくネガティブなものが根にあっても大丈夫で、それは何にも恥じることではなくて、それをバネに変えればよいってこと。あなたの怒りは矮小化する必要なんてどこにもない。それでもSNSにはあんまり書かない方が良い。noteに書いちゃってる私が言うことではないのだけれど。

仕事観も変わってゆくものだから三年後の私がどうなっているかは三年後にしか分からない。「なんやこれ……」と思っているかもしれないし、もっと違う落としどころを見つけているかもしれない。だから、今日、今のことを書いてみる。次書く時はもっと違う時代のことが根っこにあるかもしれないから。これは自分のことが楽しみだね、というまとまりのない話。

それではまた。


この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?