見出し画像

日記を売ります。

2024.4.17
日記を売るという概念を知りました。
じつは最近書いていたの、日記を。
だからやってみるか〜!って思ってすぐnoteのアカウントつくった。思い立ったが吉日って言うじゃん。大安カレンダーを検索したら今日が大安だった。
「日記を売ってる人ですよね」っていつか言われたい。


 「エッセイ書いたことないけどエッセイ書いてみたい!」と思った次の瞬間に「エッセイってほぼ日記なのでは?」と思ってそれをインスタグラムで言った。そしたらいろんな人からいろんな反応をもらって、その中にひとつ、こんな連絡が。

「日記いいよね、最近、日記本専門のお店とかフェアとか作家さんよく見かける!」

し…知らない…
先の発言がいかに思い立った瞬間のものだったか。

『みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに』
という一冊を教えてもらって、翌朝すぐに買いに出かけた。


これを手にする前から「よし、日記を書いて売るぞ」と決意していて、よくもまあそんな浅はかなと自分で自分につっこみを入れたから、買った。

本屋の下の喫茶でそれを読む。
読まなくてもいいけど、影響されてしまったそのタイトルについてちゃんと知ってから公開することにしよって決めたのだ。

読み始めてすぐ、えぇ〜それやんってなる。

時が経てば整理されてしまうことを、混乱したまま記録しておくことに意味があるのではないか。そのためには、日記という形式は有効なのではないか。

みんなもっと日記を書いて売ったらいいのに/小沼理


わたしが書いたんか?と思った。
著者はコロナの世の中にいてそう書いているけれど、わたしはわたし自身に対してそう書く。

たとえば2月29日の日記

今日が「寒い」と思った。
嬉しかった。

とはじめて、以下に続く。

わたしを見失っている間、わたしは季節が感じられなくなる。

わたしを見失っていた時間が過ぎ去ったことを示した記録が、この日の日記なのだ。
書いていればその渦中のことをあとから目視できるし、書いていればそこから脱したわたしを誇らしく感じられる時間が生まれることだってある

そういうわけだ。
まあ所詮は何の気なしの日記で、誰かに言うほどでもないけれど確かにそう思ったと書き留めただけのやつ。
だれがお金払って読むんだろうと思うけど、誰一人にお金払って読んでもらえなくてもわたしは痛くも痒くもない。
そりゃそう
だって日記だもの


4.15
「自分のことを書いてる文章がすごくいいよね」わたしが働くカフェでコーヒーを片手に原田マハの常設展示室を読んで涙を流していた常連のおじさん、わたしのインスタグラムを見つけて読んでくれたらしくそうやって話しかけてくれた。
どこかのなにかに繋がればなんてあわよくば思っていたけれど、読んでもらっていることをまっすぐに知らせてもらったら不思議な気持ちだ。

遠い場所だと思っているのは自分だけということが最近度々あるなと思った。
エッセイストという人にわたしもなれるだろうか。


エッセイストというひと、わたしにもなれるだろうか。
読んでもらうことと誰かのどこかに残ることを試してみたいと、はじめます。


誰かに自分の日記を読んでもらう事、正直まだピンときていないのだけど、覗いてみたいと思ってもらえたらそれはきっとわたしの価値になる。
覗いてみたい!の表現として記事を有料にします。

わたしの日記が、わたしの生きる価値のひとつになるかもしれない。




この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?