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『あみちゃん』の叫び

今回は『あみちゃん』について書き綴ろうと思います。

わたしは3姉妹の末っ子。ひとまわり上の姉が2人おり、親戚や、親の仕事で自宅に来る人達もほとんどが年上、大人ばかりに囲まれて育ちました。
みんなからは『あみちゃん』と呼ばれ、
一番ちっちゃい子の特権でもある、何をやっても結局可愛がられ、何に関しても誰かがやってくれるという環境の中で生きていました。
しかしあみちゃん、可愛がられて嬉しい!よりも
「あみちゃんのことは、あみちゃんがきめたい」。あみちゃんの、本音です。
そこへその声を遮るかのように
「でもジコシュチョウすると、きっとダメっていわれる」
「いいこでいないときっと、かわいがってくれない、そしたらあみちゃんはひとりぼっちになってしまう」

【大人に可愛がられる、必要とされる存在でいなくちゃいけない】

この強固な恐れに、
いつしかあみちゃんは姿を隠し、
その存在は、どんどん薄れていきました。

…時は経ち…

真我についての学びを進めていくと
これまで起こってきた辛い現実が、大体いつも同じパターンだということに、ある時気づきました。
しかしその、苦しみの元の元がわからない。なぜいつも繰り返しているのだろう?

その折に始めた、
ホ・オポノポノのクリーニング。
そこで初めて、『あみちゃん』のことを長らく忘れていたことに気がつきました。
忘れかけていた幼少期からの過去の出来事が、フツフツと浮かんでは消え、浮かんでは消えていきます。

「あみちゃん、」
と話しかけてみた時、あみちゃんから返事はありませんでした。というより、聞こえてなかっただけかもしれません。それだけ声が小さくなっていたのかも。
それから毎日、ただ話しかけるだけ。ということを続けていたある日、
あみちゃんからの声をキャッチ出来たような手応えが。
そこで、あみちゃんと一緒にクリーニングをする、ということも続けてみたら、あみちゃん側からクリーニングをしようと言ってくれているような手応えが。
嬉しくなって、あみちゃんと共に毎日を過ごす意識をしながらの生活が始まりました。

そうしてつい最近、パートナーとあることでぶつかることがありました。
本来なら、ぶつかる原因について怒るはずなのにその時は、
彼がひねて本音をわたしに言ってくれなかったことに対して、ものすごい怒りが底から湧き上がってきました。
次から次へと言葉が飛び出し、泣き、嗚咽になるまで泣き続け、終いにはトイレへ駆け込み嘔吐。

いつもなら、ここまで彼に泣き叫んだりしないのに。とどこか俯瞰して見ているわたし。

そして、
「なんでわたしに向き合ってくれないの⁈」
と彼に放った時、ピコーーン!!と、
点と点が繋がり、線になる衝撃が走りました。

『あぁ、これは彼に言っているのと同時に、
あみちゃんがわたしに言っているのだな。』


あみちゃんの本音の声を聞かなくなった日から今まで、あみちゃんはわたしにとめどなく話しかけていたのだろう。
でもわたしは耳を貸さない。
耳を貸すまで、同じパターンの苦しい現実は繰り返されます。
苦しみの元の元は、あみちゃんを置き去りにしていたことだったのです。
嘔吐するほど、あみちゃんが溜め込んでいた苦しみの量が膨大だったことに、気づきました。
これまでの、感情をありのまま受け止めていく、という実践を続けて、クリーニングも始めて、ようやく、
わたしはあみちゃんのたった一つの叫びに気づくことが出来たのです。

「あみちゃんのことは、あみちゃんがきめたい」

この真実の声を無視したことによって引き起こされた‘’同じパターンの苦しい現実‘’、それは

【自己表現することの恐れ】

自己表現をする=愛されない
という方程式が出来上がってしまっていたのです。

あみちゃん、今までずっとごめんなさい。
あみちゃん、どうか許してください。
あみちゃん、気づかせてくれて本当にありがとう。
そしてあみちゃん、愛しています。

あみちゃんと、これからはずっと一緒に!
芯から安心する、心強い存在です。









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