「戦争」の対義語について考えてみた

今朝、戦争の対義語について議論する機会があって、そのあと色々と考えて思ったことなどについてメモしておこうと思います。

「戦争」の対義語は「平和」なの?

戦争の対義語は何か。

ググってみると漢字検定7級の問題では「平和」だそうです。

でもまあ、これは個人的には全く納得がいかないんですよね。

例えば「戦争する」とは言って「平和する」とは言いません。

戦争は相手がいて成立するものですが、平和は相手がいなくても成立します。

戦争していないからといって平和とは限らないし、

自分の生活が平和だからと言って、国が戦争していないとも限りません。

自分の国がよその国と戦争していても、国内の自分の生活は平和だったりするわけです。

自分に戦う意思が無くて、一切抵抗しなかったとしても平和が維持できるとは限りません。

別に相手が人間じゃなくても、自然災害や疫病なんかで生活の平和が奪われることも多々あります。

大事なことなので太字でもう一度言いますが、

戦争していないからといって平和とは限らない

ということは戦争の反対は平和ではないことは明らかですよね。

子どもらに伝えたい。

「戦争」の対義語は「妥協」という考え方

さて、それでは「戦争」の対義語についてですが、私は戦争の対義語は「妥協」だと思っています。

正確に言うと「思っていました」。

妥協の「妥」という字は「穏やかにおさめる」という意味で、「協」は「お互いに力を合わせる」という意味です。

お互いに協力し合って穏やかに解決することを「妥協」と言います。

戦争の対義語としては、平和よりもずっと適切な気がします。

今、妥協についてものすごくポジティブな側面だけの話をしましたが、「妥協する」ということは必ずしもハッピーではありません。

「妥協」にしろ「戦争」にしろ、まず前提として両者の「利害の対立」があります。

互いの欲求がぶつかり合った状態が発生して、はじめて「戦争する」か「妥協する」かの選択が生まれます。

なので、「妥協」は必ずしもハッピーな結果に結びつくとは言えません。

絶対に妥協するべきでない相手もいるかも知れません。

例えば、戦う相手が「自分の弱さ」だったりする場合、妥協しない方がいいかもしれません。(無理なら逃げてもいいですけどね。)

と、まあ、ひとまず「戦争」の対義語は「妥協」ということでいったん話をまとめておいて、「平和」の対義語について考えてみましょう。

「平和」の対義語は難しい

平和というのは状態を表すので、平和でない状態を考えると対義語が見つかるのではないかと思ったんですが、これがなかなか難しい。

「混沌」かな。

とも思ったんですが、「混沌」の反対となると「秩序」とか「整然」とかいう語が浮かびます。

あれ?対義語むずいなと。

で、話を思いっきり脱線して、対義語の意味について思考を広げてみたんです。

例えば「生」と「死」。

「死ぬ」というのは生命の終わりを意味するので、反対は生命の始まり、つまり「生まれる」です。

じゃあ「生きる」の反対はなんだろう?

「死ぬ」はもう使っちゃいました。

難しいからいったん飛ばしましょう。

「生きている」の反対は、これは簡単です。

「生きている」の反対は「死んでいる」ですよね。

余裕でわかりましたね。

でも、私は科学者の端くれなので、疑念が生まれました。

例えば石ころは生きていないけど、死んでもいないよな・・・。

あれ?

「生きている」の反対は「死んでいる」ではないかもしれない。

ここでしばし熟考してみて、すでに答えが出ていることに気がつきました!

そうです。

「生きている」の反対は「生きていない」です。

「死んでいる」の反対は「死んでいない」です。

日本語って便利!

「生きる」の反対は「生きない」

「死ぬ」の反対は「死なない」

ですね。

幼稚園児でも知ってるようなことでした。

んなアホな、と思ったあなた。

これ、結構大事なことだと思うんですよ。

節子、それ対義語ちゃう・・・。と思ったあなた。

正解。

数学でいうところの「補集合」で考えよう

私が述べた「生きている」と「生きていない」は、数学でいうところの「補集合」という関係にあります。

反対の意味というのは要するに「補集合」やなと。

この、補集合を考えるのって大事なんですよ。

「平和」の対義語の話に戻しましょう。

「平和」の「対義語」と言われれば難しいですが、「補集合」なら簡単です。

「平和である」の反対(補集合)は「平和ではない」です。

「戦争する」の反対(補集合)は「戦争しない」。

あたり前のことですが、重要です。

「『平和』の反対は『戦争』である。」とか言われても、「ふーん、そうですか」となるだけです。

なにも解決しない。

「『戦争』の反対は『妥協』である。」とか言いきるのも、あまりよくない。

「戦争する」の反対は「戦争しない」だと考えれば、では「戦争しない」とはどういうことなのか、具体的にどうすればいいのか、考えますよね。

「妥協する」以外の道があるかもしれない。

「平和である」の反対は「平和ではない」と考えれば、では具体的に「平和ではない」状態とはどういう状態なのか、考えることになります。

こっちの方が、色んなことに想像がおよぶと思いませんか?

物事を正確に認識するためには、言葉を正確に使う必要があります。

「対義語」と「補集合」は違いますが、「反対の意味」と言われると「補集合」の方がしっくりきます。

安易に対義語を使っちゃうのは、選択肢を狭める、思考の範囲を狭めることになるなあと改めて思いました。

結語

さて、私は言語学者ではないので、「対義語」の定義について大きな誤解があるかもしれません。

「対義語はそういうものではない」と怒られるかもしれないので先に謝っておきます。

間違ってたらごめんなさい。

なので、考え方の1つとして読んでもらえれば幸いです。

こんなダラダラ書きなぐった駄文を最後まで読んでくれてありがとうございます。

たぶんお役に立てなくて光栄です。

以上。

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