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【連載小説】絵具の匂い 【第6話】車の上のマットレスと黒い家

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絵具の匂い 【第6話】車の上のマットレスと黒い家


彼女との心の距離は縮まったものの、離れて住んでいるしお互い学校もあるので相変わらず会えるのは週末くらいだった。平日たまに電話で話すこともあったが、俺は電話があまり得意じゃなかった。母国語でもそんなに電話が好きな方ではなかったが、外国語だとなおさらだった。

大体顔が見えないと何を話していてもまどろっこしい。その頃にFaceTime(いわゆる iPhone のビデオ通話)や Zoom なんかがあったらもうちょっと違ったのだろうと思うが、今思えば不便な時代だった。

夜遅い時間には隣の夫婦の家に電話を借りに行くわけにもいかないので、必要な時は家から少し離れたトラムの停留所の横にある電話ボックスまで行って電話をしていた。

しかしいくら平和なこの街でもあまりの深夜となると、やっぱりヤバい。トラムも終わってしまい、真っ暗な道の中で電話ボックスだけが光っているわけで、夜中に話していると遠くからでも目立つ。しかし電話ボックスに近づいてくる人間の様子はこちらからは全くわからない。暗闇の中から急に酔っ払いが現れたり、車で通りかかったアンチ・アジア人みたいなヤツがからんでくることもよくあった。

***

そんなわけで相変わらず生活は不自由だったが、彼女の存在のおかげでそれまで無味乾燥だった海外での孤独な生活が、気分的には急にパッと花が咲いたように明るくなった。

日々の生活は、学校から帰り翌日の予習のための本を何冊も読み、明け方に最終的に意識が朦朧としたところでブーメランのように腰が曲がるベッドで寝落ちするというものだったが、なんだか何をするにも張り合いが出て来たのだった。

このブーメランベッド、前の住人が残して行ったものなのだが、あまりにバネがヘタっているので、上に寝転ぶと腰が沈んで体がブーメランのような「くの字」の形になるのだった。ベッドのような形をしているが、実質ハンモックに寝ているようなものだから寝返りは打てないし、もちろん腹ばいに寝るのは不可能である。いつも朝起きると腰が痛く、早くこいつとおさらばしたいと思っていた。

ところでちょっと話が逸れるがこの『ブーメラン』、発祥の地はオーストラリアらしい。ご存じだっただろうか。古代より先住民のアボリジニが狩りや儀式の道具として使っていたと言う。なんでもオーストラリア大陸を発見したイギリス人のキャプテン・クックが上陸の際に先住民のアボリジニに「それは何だ」と聞いたら「ブーメラン」と答えたので「ブーメラン」という名前になったと言う、なんだか少し雑な言い伝えがある。

このブーメラン、19世紀以降オーストラリア全体のシンボルとされ、「またのお越し」や「安全に帰る」と言う意味で、ホテル・交通機関・爆撃機がシンボルにも使い始めたとのことである。現在は世界中で競技会もあるが、アボリジニは自らのアイデンティティ回復のために、汎アボリジニ・シンボルとして再活用し始めていると言う。

馬と牛の彫られたアボリジニ(オーストラリア先住民)のブーメラン
(オーストラリア国立博物館)

いつの間にかディスカバリーチャンネルのような話になってしまったが、なんの話だっただろうか。そうそう、相変わらず金はないが精神的には生活が充実してきたという話だった。

しかし人間贅沢なもので、精神が満たされてくると、物理的な不便からも抜け出して、もう少し人間的な暮らしがしたくなる。そこで俺はちょっと時間を工夫してまた働き始めたのだった。まずは大学院の同級生が紹介してくれる単発のバイトなどで体を慣らした。あまり大きな収入にはならなかったが少しずつ生活も楽になり助かった。

相変わらずセシリアには週末にトラムに乗って会いに行く程度で、あまり頻繁には会えずにいた。彼女も毎日大学の課題とバイトに追われて大変そうだ。もうちょっと住んでいるところが近いといいのになと思っていた。

そんな時の朗報だった。セシリアの住んでいる黒い家(フラット)の住人の一人が引っ越して一室が空いたのだと言う。俺はそれを聞いたその週末に黒い家に行ってみた。

***

引っ越した住人というのは、遊びに行った時に一度話したことのある感じの良い男だった。前に誰が住んでいたかというのはやはりちょっと気になるものだ。空いた部屋を見せてもらうと、きれいに使われていたようだったが、そこには備え付けのクローゼットがひとつある以外、家具らしきものはなかった。ベッドもない。

レント(家賃)を聞くと、今の住処よりも安い。まあ、色んなものが共同なので、当然と言えば当然なのだが、このタイミングでのこの空き部屋、飛びつかない手はないだろう。

俺はその足で、近くに住む大家に話をしに行った。まだ他に申し込み者はないとのことなので俺はその場で引っ越すことに決めた。この国には礼金制度はなく、最初に bond(保証金)を1か月分払えば入居できた。それぐらいならまあなんとかなるだろう。しかもこの敷金、退去時にそっくり返ってくるので、実質引っ越しで費用が発生することはないことになる。

となりに住むギリシャ夫婦とはもうかなり仲良くなっていたので、そこだけは残念だったが、まあ全く会えなくなる訳ではない。俺は心を決めた。

***

あっという間に引っ越しの日がやって来た。ものはあまり買わない主義だったので(単に買えなかったという見方もあるが)俺の荷物は非常に少なかった。ギターが一本と、段ボールに入れた本と服、そして最低限の食器程度である。

となりのギリシャ夫婦、ジョーとアイリーンに引っ越す事になったことを伝えると、なんだか色んなものをくれると言う。アイリーンには日頃からブーメランベッドの寝心地の悪さの話をしていたのだが、それを覚えていたようで、昔娘が使っていたマットレスをひとつくれるという。

「でもどうやって運ぼうかな」とアイリーンに言うと、「ジョーが運ぶから大丈夫」と言った。

引っ越し当日、土曜日で仕事が休みのジョーが俺の荷物を全部運んでくれることになった。マットレスをどうやって運ぶのだろうと思っていると、ジョーは自分の仕事用の車の屋根に直にマットレスをドサッと乗せると両窓を少し開けてそこを通したロープを屋根の上のマットレスに回して、いわばマットレスを車に結び付けたのだった。

荷物を載せるキャリアがついたような車じゃなく、普通のバンみたいな車である。屋根に直に荷物を乗せちゃうところが凄い。日本じゃあまりやらないだろうが、これがオージー流というヤツである。ジョーの白い仕事用の車の上に黄色いマットレスが乗っている姿はまるで玉子の握り寿司のようだった。

イメージ写真:こんな感じ

そしてその他の俺の荷物も積み込んで、いざ出発するときに、アイリーンは餞別なのか、食べ物や果物をたくさんくれた。渡された袋を開けると、俺がアイリーンの家でごちそうになって好きになったオーストラリアの食べ物も色々入っていた。

***

ジョーの運転する車に1時間程揺られているうちにセント・キルダの黒い家に着いた。何もない部屋に俺の少ない荷物とマットレスを運び込むとあっと言う間に引っ越しは終わってしまった。

俺はせっかくだからジョーにちょっと寄って行くように言った。キッチンに入ったジョーは、パイプに火をつけコーヒーを飲むとそこで雑談していた人達に混ざり一説ぶりはじめた。気さくな男ジョーの話は意外に受けていた。

調子に乗ったジョーはひとしきりまたギリシャ風ジョークをかましていたが、しばらくすると俺の肩を叩き、「またうちにも来いよ」と言うとオッサンのくせに長いまつげの目で俺に向かいウインクをして出て行った。

【ひとくち英語コラム】
ちなみにこの「マットレス」という名前、私は昔てっきり matless と書くのだと思っていた。なんとなく意味は「マットなし」でその上にそのまま寝れるというようなところから来ている名前だろうなと思ったのだ。ステンレス stainless が、錆びない=従って染みがない= stain-less、というのと同じような論法の名前だと思ったのである。ところがよく聞くと綴りは mattressである。全然違ったのである。もともと単に、寝る敷物という意味らしい。そうそう、似たような勘違いに「ネックレス」もある。「ネックレス」も neckless ではなく necklace(首飾り) である。neckless だと首なしになってしまう。

「英語こぼれ話」のような話になってしまったが、なんの話だっただろうか。そうそう、引っ越しの話である。

ジョーが帰った後で、俺は引っ越してきたばかりの自分の部屋に戻り一通り中を片付けた。荷物が少ないので瞬殺である。床の上に直に置いたマットレスの上に試しに横になって見ると程よい硬さで気持ちよかった。セシリアとは別の部屋に住む訳だがそれは好都合だった。俺達は生活の時間帯も違うし、平日のほとんどの時間、俺は勉強とバイト、セシリアも作品作りとバイトだったのでお互い気を使わずに済み逆にちょうどよかった。

片付けを終えてキッチンに降りると、そこにいた4~5人の連中が夕飯を食いに出かけようと誘ってくれた。歓迎会という訳でもないが、同年代の心優しい住人の方々は俺達を近所の BYO(ビー・ワイ・オー)のレストランに誘ってくれたのだ。その頃は外食しても結構安かった。その理由は多くのレストランが BYO だったからだ。この BYO と言うのは Bring Your Own の略で、要は「飲み物は自分で持ち込んで下さい」という意味だった。

なんでもこの国ではレストランで酒類を提供するにはライセンスが必要で、それを取得するのにお金がかかるので、小さめのレストランの間では、このような「客が自由に飲み物を持ち込むシステム」が一般的になったとのことだった。

そんな訳で皆で食事する時はまずリカー・ショップ(いわゆる酒屋)に行ってワインなどの飲み物を買ってからレストランに行くのが王道パターンだった。これが楽しい。これから食事に行く仲間と、酒屋から茶色の紙袋に入った数本のワインを抱えて出てくる瞬間、この瞬間がもしかすると一番わくわくする時間かもしれない。こうして書いていても、その気持ちを思い出し今直ぐ酒屋に行きたくなる。行かないけど。

飲み物は店で買った原価で飲めるので、外食は全体的に結構安く上がる。素晴らしいシステムである。日本で外食すると結局酒が一番高いので、このシステム、日本でも普及すれば良いのにと本気で思ったものだった。

食事に来たのはほぼ同じ年代の20~30代の面々だったが、そこで食事をしながら聞いた話によると黒い家の住人は多種多様らしかった。

***

三階建ての黒い家の各階には、大小合わせて4部屋くらいずつあったので少なくとも12人(または12世帯)ほど住んでいたことになる。大きめの部屋もあり、そこに家族やカップルで一緒に住んでいる人達もいた。バスルームやキッチンなど生活設備は各階に共同のものがあった。しかしなんだか一階のキッチンを中心に無計画に増築、増築でデタラメに大きくした家のようで各階構造がバラバラの感じだった。

訳ありっぽい人も結構住んでいた。普段ここに遊びに来ていた時にはキッチンに降りてくる人にしか会わなかったので気が付かなかったが、共有スペースには全く出て来ない人もいた。そして小さな子供のいる家族も住んでいた。

ここで暮らし始めると、だんだんそういう人たちの様子も見えてきた。なんせレントの安いシェア型フラットなので、学生、老人、会社員、家族、シングルマザー、謎の自由人など色んな類の人が住んでいた。そして、人種も多様多様で、一部だけでもざっと挙げると、オーストラリア人の老人、タイの女子留学生、インドの技術者、謎のベトナム男、礼儀正しい地元レズビアンカップル、モルジブ夫婦、国籍不明ニートと言った具合だった。

その中でも特に印象に残っているのは、白髪で結構ガタイの良いオーストラリア人のフランク爺さんと、眼光鋭い髭のインド人のラケーシュだった。なぜならこの二人犬猿の仲でいつも喧嘩していたのだ。

***

ある日、俺はセシリアの部屋で椅子に座り絵のモデルをしていた。モデルと言ってもピシッと静止している訳でなく、ただ椅子に座り静かに本を読みながら、その姿勢のままでたまに話をするという感じだった。アジア人の顔は描くのが難しいと言い、良く練習台にさせられていた。

するとその時、キッチンから大きな声が聞こえてきた。
「また始まった ……」
そう言うとセシリアは筆をおいた。
「何?」と聞くと、「いつものケンカ」との事だった。
耳を澄ますとフランク爺さんとインドの熱い男ラケーシュが何やら怒鳴りあっていた。

面白そうなのでモデルを中断して見に行くと、インドの熱い男ラケーシュが買ってきて冷蔵庫に入れておいたケーキを、年金暮らしのフランク爺さんが食べてしまったようだった。この黒い家では冷蔵庫が共同なので、誰が入れたかわからなくならないように自分の名前や印を書いておくのが不文律になっていたのだが、面倒くさがりの熱い男ラケーシュはいちいち名前を書かないことが多いようだった。

そして年金フランク爺さんの言い分では、「何も書かれていないものは皆のもの」らしく、定期的に所有者不明の食物をチェックしては食べているようだった。そして自分で料理をしないフランク爺さんの餌食になるのは、だいたい、インドの甘党・熱い男ラケーシュの買ってくる「そのまま食べられるデザート類」なのだった。

まあ結局揉め事はそれほど深刻なものではなく、早い話がケーキの取り合いだったのだが、耳が遠く声が大きいフランク爺さんが話すオージー英語と、巻き舌で声が大きいラケーシュのインド英語での言い合いは二人とも声が大きいのでちょっとおおごとっぽく聞こえるのだった。その日はタイ人の留学生の女の子が仲裁し、年金フランク爺さんを叱っていた。

いつもだいたいフランクへの有罪判決で終わるとのことだったが、その日も同様にフランクが叱られて終わっていた。しかしお裁きの内容は「もしも今度やったら、本当に怒る」というぼんやりとしたものだったので、それを聞いていた俺は「これはきっとまたやるだろうな」思ったのだった。なんとなく、熱い男ラケーシュも本気で怒っている訳ではなさそうだった。

***

翌日の日曜日の朝、近所でジューイッシュのデリ兼雑貨店をやっているエスタの店にも挨拶に行き、黒い家に引っ越して来た事を報告した。そして、その帰りセーフウェイ(庶民の味方スーパーマーケット)によって魚を買って帰った。俺は昨日の揉め事を思い出し、まさかフランク爺さんはナマの魚を食べるようなことはないだろうが、念のためビニール袋に名前を書いて冷蔵庫に入れておいた。

そして夜になり俺がフライパンで魚を焼いていると、キッチンに色んな人が顔を出した。そして日曜の夜のヒマなひと時、結局皆でキッチンでビールを飲み始めたのだった。

色んな人の住む黒い家だったが、たくさんの人と住むのは楽しかった。
こうして俺の「黒い家」での生活は始まった。


つづく

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