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今日ときめいた映画105ー「パーフェクトデイズ」

(タイトル写真は Natalie.muから転載)

この映画は見た人の数だけ感想があると思う。この映画の監督は、小津安二郎監督を敬愛している人だとの前情報があったのでかなり先入観を持って見たかもしれない。これはあくまで私の感じたままの感想です。

映画の前半はほとんどトイレ掃除をする男の姿。来る日も来る日も几帳面で完璧な仕事ぶり。朝起きてから仕事をして床に着くまで、その生活態度は変わらない。丁寧に日常を送っている。我々はその単調な映像をずっと見せられて、どこが面白いのこの映画と思わせられる。でもそのうち何らかの種明かしが出てくるのだろうなんて期待しながら見続けるのだが、「これだ」という明確なものは語られない。

彼がどうしてボロいアパートに住み、トイレ掃除の仕事を選び、人との距離を置いて暮らしているのか、一切語られない。でも同じように過ぎて行く日常にも僅かな変化はあるものだ。その変化が彼の心にも変化をもたらす。そのことが彼の表情から見ている我々にも伝わって来る。

ある日、家出をしてきた姪を迎えに来た妹に再会する。別れ際、兄は妹を抱きしめる。その時、男の目から涙が流れる。はからずも見ていた私にもその感情が伝わってきた。何らかの理由で世間と関わりを持たずひっそりと生きてきた。それは孤独な人生であるが、心に平安をもたらしてもくれた。この映画は見る者がしみじみ感じ取るものなのではないかなあと思った。

「こんなふうに生きていけたなら」というメッセージは
この映画からは感じなかったのだけれど。

物語中、色々な音楽がカセットテープを通して流れる。最後に流れた”Feeling Good” 歌詞が良かった。

It’s a new dawn
It’s a new day
It’s a new life for me
And I’m feelin’ good

(新しい夜明けが来て、新しい一日が始まり、新しい人生を生きる、なんて気分ががいいんだろう)

追記

「こんなふうに生きていけたなら」という一文について、自分の感じたことを記しておこう:

この言葉に違和感を感じた。
この言葉は平山のストイックに繰り返される日常を見て、そう表現したのだろうか?自分とは全く違う世界で生きる平山に対する羨望の念を抱いて、「こんなふうに生きていけたなら」と。だとしたらこの映画の表層的な部分だけしか見ていない気がする。

なぜなら、この平山という人が生きている今の生き方(=孤高の生き方)は、意思を持って彼が積極的に選択したのではないと思うからだ。妹と再会し、別れ際に抱き合った時に流した彼の涙にそれを感じた。いきさつは語られていないが挫折感のようなものを経験して、そこから彼なりに辿り着いた生き方なのだと思う。

今の彼の生き方に感じる孤独感。でもそれには2つの要素がある。いい意味での孤独感=Solitude とネガティブな意味での孤独感=Loneliness (これが人間にとって厄介な感情) 彼の中にはその両方が存在しているのだと思う。solitude から得られる心の充足感や平穏は何物にも変え難い。それを映画は彼の日常のルーティンで見せている。でも無性に人恋しい思いは残る。

家出して来た姪に心が動かされたり、妹との再会に涙を流したり、スナックのママの出来事に衝撃を覚えたり。捨てきれない感情が残る。

彼の愛する「木漏れ日」はそんな彼の心境の象徴のように思う。光と影の織りなす木漏れ日にも似た心模様が彼の心境のように思う。薄っすらと人恋しさを抱えながら。

だから「こんなふうに生きていけたなら」とポスターで言ってしまうと映画の持つ意味合いが変わってしまうのではないかと思うのである。この映画の解釈は見た人それぞれがすればいいと思うのだが、この一文は見方を一定方向に規定してしまう恐れがある。

私は、むしろ揺れ動きながら今の生き方をしているであろう彼の内面に自分の思いを重ね合わせた。「こんなふうに生きている」=完璧な日常のルーティンの陰で、彼はどんな思いを持って生きているのだろうかと。“Life is basically sad” (人生は基本的に哀しいものだ)

「こんなふうに生きていけたなら」は余計な一言だと思うのは私だけだろうか?

(余談ー木漏れ日に相当する英語はないと何かのドラマで言っていた。日本語にEmpathy にあたる言葉がないように。あるのはsympathy 共感ー同じ感情を持つ者に対する同調。ブレイディみかこ氏の言葉から)




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