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今日ときめいたこと123ー「今さらながら三人娘に感謝したい👏👏👏」

本当にありがとう❣️

今日、就活する学生の現状をイーオットとテレビで見ていて、今の若者たちがこれから生きていくのがとても大変そうでいかに生きづらいか、そしてそんな息子・娘たちを見守る親たちの心労がいかに大きいかを思った。

だからそんな心労を我々に一切与えず、今の人生を一見何事もなかったように自分自身で選択して生きている娘たちのことを思い、娘たちに感謝しなければと思ったのだ。今言っておかないとって👍

私が心を砕いたのは、彼女たちを高校を卒業させて大学に入れることまで。海外生活が長かったのでバイリンガルだったことが幸いした。我々の子供だし特別な才能に恵まれているわけでもないだろう。その上帰国して日本の学校に入れてもその先ずっと受験が待ち構えていて、卒業したら就職競争。それも一斉にみんな同じ土俵で競わなければならない日本の社会。会社に入っても女性が満足いく働き方ができるかは大いに不安であった。

娘たちに対しては、みんなとは違った道を進ませてあげたかった。だから帰国後もアメリカン・スクールに入学させた。以前の記事にも書いたが帰国した時はバブル崩壊した日本。イーオットの会社は傾き、ボーナスがなくなった。35年の住宅ローンを抱えて、普通のサラリーマンでは絶対無理と言われたアメリカン・スクールの法外な授業料✖️3(幼稚園から高校まで一律同額)

幸運が重なってneedy baseの奨学金(financial aid)がもらえたこと(この学校は貧乏な家庭でも追い出すようなことはしなかった🙇‍♀️)、働き口が見つかったことでなんとか3人を高校まで卒業させることができた。当時は、アメリカン・スクールは文科省の定める学校の範疇外で卒業しても各種学校扱いだった。だから高校までは絶対出なければならない。資格がもらえないのだから。

「うちは学校で一番貧乏だね」と二女が言ったのを今でも思い出す。
「子供に必要なことは、いい教育と栄養のある食事」(GOOD EDUCATION & GOOD FOOD are most important for kids)ーマレーシアのインターナショナル・スクール時代のママ友との合言葉。外食なんてとんでもない。そんな余裕どこにある?と言うことでせっせと食事は作った。習い事、塾 etc. それも一切なし。幸い全て学校が提供してくれた。入学当時5歳だった三女は、小さな自転車に乗って姉たちを必死に追いかけて通学した🥲(ちょっとかわいそうだった)

家は貧乏だったけど、子供たちのことは厳しく躾けた(と思う。だから今頃「お母さん、怖かった」と言われる)

ー「家事はお母さんの仕事じゃない」
だから全員でやった。ローテーションで学校に行く前に洗濯物を干したり、掃除機をかけたり。

ー「美貌より知性」
服装が自由だった割には地味だったね。化粧もマネキュアも自由だったけどやらなかった。「日本語と英語をちゃんぽんにして話さない。ら抜き言葉は使わない」も入っていた。

ー「経済的に自立すること」その前に「18歳になったら家を出て行くこと」
大学入学とともに全員家を出ていき、それっきりになった‼️

大学や大学院卒業式にはもちろん出席したけど、会うのはせいぜい1年に一回くらい。その後、結婚する。就職した。転職した。妊娠した。家を買った、売った。他の州に引っ越しする。看護師の資格を取る、取った。病院の救急治療室で働くことになった等々。

全部事後報告だった。ただ彼女たちの求めに応じて、渡米しただけ。妊娠した時はこんなメッセージが、

オムツいっぱい送れ!3人目…⁉️
4人目が生まれるよ😱この時はコロナで手伝いに行けなかった。番狂せに娘も大変だったようだけど…。
男の子か女の子か、どっちだ❓

だから彼女たちがどんな就活をしたのか、どんな苦労をしたのか、全くしらない。4人目の出産がコロナの流行と重なった長女が「産後うつ」で薬を飲んでると聞かされた時は、さすがに心配したけど本人はいつものように仕事をしていると言っていた。3年して長女家族が日本に来たとき回復したことを確認してホッとした。3歳になった末娘とも初対面だった。

今日のテレビで就活生の24〜5%は親に相談しているとか、親とオリエンテーションに参加しているとか、内定の確約は親とするとかという日本の状況を見ていてしみじみ我が娘たちの来し方を思った。全てのことを自分だけで決断して、幸せな家庭を築いている。

だからここで娘たちには「よく頑張ったね」、そして「ありがとう」と言っておきたい。

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