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若き日の思い出(その2)ーインターナショナルスクールを選ぶ

<若き日の思い出(その1)の続編です>

ボルネオ島で5年余りを過ごし、一家5人クアラルンプールに転居することになった。そこで更に5年間過ごすことになる。

クアラルンプールに引っ越す前、愕然とすることがあった。3人の娘達は、私が秘書として働いていたこともあって、現地のnursery (保育園)に預けていた。マレーシアは多民族国家である。当然nurseryもマレー系、中国系、インド系、その他の部族の子女が預けられている。保母さん達も同様に多民族からなる。だから日常の言語は、英語、マレー語、タミール語、中国語(と言ってもダイアレクトと言って中国本土の出身地の方言ーと言っていいか、福建、広東、客家、潮州、他色々) が話される。

長女が3〜4歳ぐらいだったと思う。中国人の友人が彼女と中国語で会話をしているのだ。友人が、「この子は福建ダイアレクトが話せるよ」という。試しにマレー語でも話してもらった。それも話せるのだ。英語を話すのは知っていた。私はこの時、自分の思い至らなさを悔やんだ。自分がその言語能力がないばかりに、気づいてやれなかった。もしかしたら、もっと他の言語も話していたのかも知れない。クアラルンプールに転居して英語中心の生活になり、彼女にはもうその言語の痕跡はない。

クアラルンプールは首都だけに大都会である。新築したばかりの日本人学校もあったし、アメリカンスクール(正しくは、ISKL、International School in Kuala Lumpur。完全にアメリカの教育システム)やイギリスの教育制度に基づいたインターナショナルスクールもあった。長女が学齢になったため選択しなければならなかった。日本人学校は日本の学校より日本的だと聞いた。校則やらPTAやら煩わしそうに思えた。「日本人の母親達は、学級参観で役員選出がある時は、教室の壁の色と同じ色のスーツを着て目立たないようにする」のだと聞いた。

私はISKLの見学に行った。アドミッションの担当者や校長にあって話を聞いた。「どんな教材や教科書を使うのか」と質問すると、決まった教科書はないとのこと。すべて担任の裁量に任されていて、team teaching を行うこともあるらしい。1クラス14〜5人。最後に校長が言った。「教育とは、教科書を学ぶことではなく、単語をたくさん覚えたり、計算が速くできるようにすることでもない。日本の教育はこの傾向が強いですよね。でも、学校で学ぶべきことはもっと他にあります。教材も周りにたくさんあります。」ISKLに入れることを決めた。

学校の雰囲気は、今まで自分が体験した学校とは全く違っていた。とてものびのびしていて、自由な雰囲気。「自由」という感覚は、その空気の中で身につけるものだと思った。その空気の中で呼吸をし、自分が育むものだと思った。「自由とは何か」教えたり学んだりすることはもちろんできるが、肌感覚として感じる自由を我が子には体得してほしいと思った。

アメリカの教育システムに基づいてはいたが、ホスト国であるマレーシアの文化はもちろん、世界各国から来ている生徒の文化も共有するような教育内容だった。担任の手伝いをするボランティアになったので、ほぼ毎日学校に行って我が子を見ていた。お昼は一緒に食事もした。教室はオープンでいつも誰かのお母さんが来て手伝ったり、子供の勉強を見たりしていた。(私が知っている学校は、自由に教室の授業ものぞけない閉ざされた空間の中で、一斉に黒板に向かって同じことをする所だ)

よく見ると、小さなグループに分かれて、別々なことをしている。あるグループは、日記を書いている。また他のグループは本を読んでいる。先生が回って歩いてアドバイスをしている。それがいつもの授業風景だ。長女の英語は、1日でアメリカンイングリッシュの発音に変わった。

この学校においては、学校行事などへの親の関わり方は、日本の学校の母親達と違ってポジティブだった。いろいろな係や行事への協力が必要な時、「あなたは、何ができる?」と聞かれた。一人でいくつも出来る人がいたりして、係はどんどん決まっていく。できない人、やりたくない人もいたのだろうが、押し付けあって決まらなかったと言う記憶はない。みんな自分自身の楽しみとしてボランティアをしていたようだ。沢山のカップケーキやブラウニーを作って持ってくる人がいたり、本の読み聞かせに来る人がいたり、体育の授業を手伝ったりと。

楽しい学校生活だった。次女も2年後入学した。ストレスフリーの毎日だったが、長女が3年生を終了する頃、日本への帰国が決まった。


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