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憧れるの、やめませんか 運動神経が悪いということ Vol.33

今夏の甲子園、兵庫県代表の社高校は残念ながら初戦で敗退した。郷土の代表校にせよ母国のナショナルチームにせよ、応援したチームが敗れたとき、勝利した相手側に向ける心理には大きく二通りあるように思う。「さっさと敗退すればいい」と悔しさを引きずるか、「わがチームのぶんも勝ち進んでほしい」と応援するほうに気持ちを切り替えるか。おそらく、後者には潜在的な目的があるのだろう。「この相手に負けたのなら仕方ない」と受け止めることで、きっと自尊心を保ちたいのだ。

太平洋戦争で一敗地に塗れた国民の総意は、どうやら応援への切り替えだったらしい。終戦後の日本は憧れや礼賛、さらには追従を通して、アメリカという国と絶えず好意的に向き合ってきたように映る。私にとって10代後半から20代はじめにかけては、アメリカへの疑念や反感が高まった期間でもあった。9.11同時多発テロが発生したのが高校3年、イラク戦争に突入したのが浪人を経て大学に入った年だった。一連の動向を見るにつれ、アメリカに対しそれまで漠然と抱いてきた印象は変化していった。次第に、それはメジャーリーグをはじめとする娯楽にまで及ぶようになった。

「何の世界チャンピオンなんだ?」―先ごろ、とあるアスリートの発言がちょっとした波紋を広げた。バスケットボールの最高峰NBAについて、そのプレーオフ決勝戦は“ワールドチャンピオンシップ”と称されるが、アメリカの国内リーグではないか、というのが主旨だった。言葉の主は、ノア・ライルズ。先日のブダペストでの陸上世界選手権で200メートルの3連覇に加え100メートルも4☓100メートルリレーも制し、短距離種目の個人3冠を成し遂げたトップスプリンターだ。賛否両論あろうことかと思うが、アメリカ以外のスポーツやカルチャーを知る人間であればごく自然に抱く感想であり、それが他ならぬアメリカ人から発せられたのが興味深い。

公正中立的な機関による統括。戦力や人気の幅広い国と地域への分布。参加各国がベストメンバーで臨む権威ある世界選手権。これらを満たすことが真に国際的なスポーツの要件だとすれば、アメリカが誇る「四大スポーツ」は、いずれも該当しないだろう。アメリカンフットボールなど、いくらアメリカの花形でも他国ではマイナーな存在に甘んじている。バスケットボールあたりは肉薄しているかもしれないが、最先進国たるアメリカがワールドカップには若手主体のメンバーで臨んできたのが惜しい。陸上競技で世界の頂に立ったライルズとしては、より国際的なはずの自らのスポーツを差し置いて四大スポーツのほうが注目される自国の現実に向けて、不満をぶつけたくなったのだろう。

国際的な環境を実現するうえでもっとも重要なのは、前の段落にあげた最初の項目に違いない。しかしながら、アメリカの四大スポーツに共通する志向は、国内リーグを世界の頂点とすることだ。アメリカ・ファーストは、ことスポーツに関しては旧来の伝統なのだ。自分たちが実権を握らなければ、トップに立たなければ気がすまない人々にしてみれば、公正中立的な機関の介在など足かせでしかないのだろう。自由の国と称されるアメリカだが、国内を世界に置き換えたような自己完結型のスポーツ界から見え隠れするのは、意外にも内向きで、いつまでも傲慢な国民性ではないか。

私のなかでアメリカに後ろ向きな印象が芽生えてもう20年ほどになるが、わが国はといえば、変わらずアメリカの太鼓持ちを続けているようにしか思えない。"唯一の超大国"の繁栄を後押しすることで、「この相手に負けたのなら仕方ない」と自らに言い聞かせてきたのだろうか。ことさら対抗する必要はないだろうが、何もかも鵜呑みにする義理もない。私は密かに、日本の第一人者の口からもライルズのような声が聞こえてくることを期待している。「憧れるのをやめましょう。」大谷翔平はそう言ってアメリカから勝利を収めたが、その姿勢、WBC決勝に限定せずともいいはずだ。

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