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神はわたしとあなたとともに


10秒で読めるまえがき


書きかけの中神関連の記事がまとまらないので尻叩きに公開します。コピペしただけなので体裁は整ってないです。2個あります。思考の種になったツイート貼っただけの箇所もあります。



伊藤ふみやと「わかる」こと―#53「描く大瀬」の伊藤ふみやと#78「ぶちのめせ!」の中神総右衛門を比較して考える―


 モノローグが来た。中神総右衛門に来た。 これは配信直後から今までずっと#53 「描く大瀬」にとりつかれているものとしては重大な事象である。 私は最近#53「描く大瀬」の解釈もとい回全体の再構成、物語全体における位置づけなどを行っていた。伊藤ふみやのモノローグを読みつないで見えてきつつあった私だけのとびきりきらめく解釈。文章構築がとにかくヘタクソなのでまとまらない中自分だけその解釈を煮詰めてニコニコしていたところに、これである。 ハッキリ申し上げよう。こんなものを投げるな。ますます解釈がはかどってしまうだろうが。

ということでこの記事は、#53「描く大瀬」での描写を中心に読み取った伊藤ふみや考に、#78「ぶちのめせ!」を中心にした中神総右衛門の解釈をからめ、なんかヤバいっぽいということだけを嗅がせるための考察とも言えないような記事である。


このツイートに連なるリプツリーをちょっと書き換えつつ使ってます。


まず手短に#53「描く大瀬」の話を。

「そして大瀬は何もしないかもしれないが、何もできないわけでは決してない」のあとに、大瀬が猿川に絵を描いてわたしたちの挿入された描写から、伊藤ふみやは大瀬の「できる」ことを「描く」ことだと思っていると考えられる。

#53 「描く大瀬」と#78「ぶちのめせ!」は、大瀬の絵が登場し、その絵を見た者のモノローグが挿入されるという観点で似ている。だがそれだけではなく、この2つの回では「大瀬の絵について話者は『わかっていない』と示されている」という共通点がある。

この2つの話の中では、モノローグを使う両者ともに、大瀬の絵を自分のしかし異なるところとして、大瀬が絵に対しどう思っているか、ということをふみやと総右衛門の二人を比較する際、お~せの絵を前にしたときに、お~せの気持ちや行動の意味については分かってないんですよ でもその内訳は異なっていて、そ~えもんは「意味はない」と思っているのに対して、110238は自分が「わかっていない」と思っているんですよね わかりえないことを自覚している

これは#26 でも「知ってるだけだ わかってるわけじゃない」と言っているので、238が意図的に獲得している姿勢であるだろう し、本当は「わかっていない」も嘘なんですよね なんとなく見当がついてはいる(#64 「お返しのつもりだろう」)。けど、それを口にする気はない。


つまり110238はお~せの絵を見たときに、意図を読み取ろうとすることはできたし、実際したんですよ でも彼の中に「人は人のことを完全には分からない」というスタンスがあって、それに基づいて「わからない」と言ったんですよね それはお~せがさるかわけ~に宛てたもので、自分のものじゃないから

本当はわかっているかもしれないことに対して、「わからない」と言うことが、その意図を読み取らないことがあの瞬間110238のした行動だ そしてそれが正邪の接し方なんですよね(わたしは「正邪」の本質はあらゆる境目に対する超越だと思ってるので)

一方でそ~えもんは「科学者」で、7人に接近したのも彼らの持つエネルギーを利用したいから。彼は7人の個性がエネルギーの源であると知っている(レーダーの仕組みから)からその在り方にも肯定的なんだけど、それを常に数量に置き換えているフシはあると思うんだよな。

つまり、238はあえてしないでいようとしている7人への裁定を、そ~えもんは出てきた瞬間からずっとしている。だからお~せが絵を取りに戻ったことに対して、「とくに意味はないだろう」と判断するんですよね これは110238の方針と大きく異なってる

110238は「意味がない」を「だから判断しない」に結びつける人だから 「はい、しゅーりょー」の人だから 判断の余地を挟まない、判断させない でもそ~えもんは「が変な心変わりを起こされても困る」から、お~せの行動をとがめなかったんですよ それが自分にとって都合がいいか悪いかを、彼は「意味はないだろう」のあとに「判断」した

みなとお~せの行動はあの瞬間、都合が悪くなかったから許されたんだけど、わたしはそれこそがみなとお~せが自分に問うてきたことに連なってしまうこわいことだなあと思う お~せは自分のことを何の役にも立たない、と思っているから 役に立てばよかったのに、と思ってしまうけど、自分は自分であって他の人にはなれないんですよ だからみなとお~せは何度も死のうとする みなとお~せに対する最適解は「何もしない」ことなんですよね(え!?)(書きながら思考してるので今わたしも普通にびっくりしてる)(え!?!?!?!?)

総括するとそ~えもんは登場した瞬間からみなとお~せに対する理解者になんかなれっこないという認識で作られたとおぼしきキャラクターだということです これは決して不幸な悲劇ではない なぜならおそらく本人も特に目の前の人間を理解しようという気がないから

でもそ~えもんのズルいところは、「理解できない」ことはわかっているくせに、「君は弱い」のように勝手に判断して、「理解した気にな」り、その過程で自分の方が上だと認識して強権を振るったところ!これがそ~えもんのダブスタです(刀リスマのキャラはだいたいダブスタなとこある)

で、それを導き出すのに使った110238の接し方はというと、判断しないために「何もしない」でいたことです これはつまり、理解したいからこそ、理解しようとするのをやめたということです。わかろうとすればどうしても自分の判断が入ってしまうから、解釈しなかった

わたしはもし110238がこちらの意図通りに行動していたのだとすれば、その態度を誠実だなあと思います。

「祈るだけじゃダメ」、なんで――伊藤ふみやと「祈り」に関する一考察


カリスマ#90「帰る」を聞いた。
「帰りたい」という願望から始まった物語が、「帰る」という断定形でその願望の実現を表現している。そして公式サイトを見るに、この話を以て今シーズンは一応の決着となり、休暇明けにはもう新しいシーズンになって、そのときはおそらく「あの家」に皆で居ると考えられる。もうこれらを踏まえたらタイトル見ただけで感極まってしまうレベルになってしまった。困る……

さて、今回は個人的に中神総右衛門の立ち回りが印象的だった。
2ndシーズンから登場したマッドサイエンティスト風味博士である。本人は#77「白い部屋」で大瀬にそう言われた際に否定していたものの、実際#82「故郷」で貧民街に戦車を持ちこんで七人以外はどうでもいいからとガンガン攻撃させていたあたりなんかは、研究以外に払う関心を持たない立派なマッドサイエンティストだったと思うのだが、時には#85「buddy」みたいに、ただの「箱推しおじさん」になってしまうことがあり、なかなか読めない人間である。

今回作戦を逆用されて捕まってしまった総右衛門は序盤、協力しているつもりだったふみやに向かって強い言葉で再度の協力を訴える。(後半では総右衛門の誠意こと1億円がものを言い始めるので割愛)

その中で一番ひっかかったのは、「祈るだけでは何も手に入らないんだよ!」という総右衛門の叫びだ。総右衛門の言葉で単純に対立させるなら、七人、特に密通しながら裏切りを敢行したふみやは「祈る」者であると言えよう。では、カリスマにおける「祈り」とはなんなのか?

本記事は、超人的シェアハウスストーリー「カリスマ」の伊藤ふみやの行動に「祈り」を見出し、それについて考察する記事である。

「カリスマ」において「祈り」は、1stアルバム『カリスマ ワールド』において新録された楽曲「神の領域」曲中の「祈るだけじゃダメなんだ」という箇所に登場する。

では、伊藤ふみやの行動に見いだせる「祈り」とはなんなのか?

#90 「帰る」を踏まえ、この記事では伊藤ふみやの「祈り」について個人的に考えたことを書く。


「祈るだけじゃダメ」なので

さて、個人的にカリスマ#90「帰る」は中神総右衛門の立ち回りが印象的だった。2ndシーズンから登場したマッドサイエンティスト風味博士である。本人は#77「白い部屋」で大瀬にそう言われた際に否定していたものの、実際#82「故郷」で貧民街に戦車を持ちこんで七人以外はどうでもいいからとガンガン攻撃させていたあたりなんかは、研究以外に払う関心を持たない、人命を人命とも思わぬ立派なマッドサイエンティストだったと思う。一方で#85「buddy」終盤のようにただの「箱推しおじさん」になってしまうことがあり、なかなか読めない人間である。


この回、作戦を逆用されて捕まってしまった中神は序盤、協力しているつもりだったふみやに向かって強い言葉で再度の協力を訴える。(後半では中神の誠意こと1億円がものを言い始めるので割愛)


その中で一番ひっかかったのは「祈るだけでは何も手に入らないんだよ!」という中神の叫びだ。中神の言葉で単純に対立させるなら、七人、特に密通しながら裏切りを敢行したふみやは「祈る」者であると言えよう。


「祈るだけでは何も手に入らないんだよ!君たちは分かってない!」

「カリスマ」 #90 「帰る」

これは言うまでもなく、「神の領域」二番とラスサビの前に登場する「祈るだけじゃダメなんだ」という文言に由来する。中神はほかにも、「私は慄いた」など、あきらかに”視聴者の世界”を知っていないと選べなさそうなセリフを言ってくるので、既存楽曲の歌詞の引用が行われたこと自体は不思議ではない。

このセリフに引っかかったのは、中神の口から「祈るだけでは何も手に入らない」と告げられたのが二度目のことだからだ。

「共に、次なる領域(リージョン)へ。祈るだけでは何も手に入らない」

「カリスマ」 #75 「帰りたい」より

この言い方からして、おそらく中神は楽曲としての「神の領域」の存在を認識している。だから「祈るだけじゃダメなんだ」を逆手に取るようなことを言うのであろう。「何も手に入らない」ことを嘆く中神は、七人に何かを与えたい側の人間だ。それは「帰る」でも、研究費が削減されている中で1億円を用意していることから言える。税金返せ。

しかし、ふみやはお金だけを求めてはいない。お金や利益を求めるなら中神に従い、研究対象となるべきだ。ではこの生活の中でふみやの求めるものはなにか。これもすでに本編で解説されている。

#87 「バスは来ない」でふみやは、「俺はこうして気が合う奴らとなんでもない時間を過ごせているだけで十分なんだ」と言う。それ以外のものは要らないのだ。求めているたった一つの

そしてカリスマたちもまた求めていない。「帰りたい」でテラは「なんにも要らないよ。ほっといてほしいわ」とぼやく。他の6人からの異論は巻き起こらないので、全員薄っすらと似たような気持ちを持っているのではないかと思う。我々視聴者によって成り立っているらしい生活に必要な「支援」はともかく、それ以外の外部からの何らかなんて彼らは必要としていないのだ。

この時点ですでに、中神の指摘が少しズレた、的はずれなもののように感じられる。彼らに"何か"は要らない。なんにも要らない。私にできることは支援者として支援を続けることである。そしてその一点においては、中神も私という一人の視聴者と何ら変わりないのだ。

ここからは伊藤ふみやの「祈り」に着目していく。伊藤ふみやの「祈り」として私は#89「バスは来ない」より、猿川とふみやの会話を引用したい。


「リュウ元気かな」「知るかよ、何だ急に」「元気だといいな」
「カリスマ」 #87 「バスは来ない」


この「元気だといいな」に、私はふみやの「祈り」を見出している。

猿川慧が目をかけていたリュウという少年の話題において、ふみやはどうしたって部外者である。


「……あれはあいつの問題だ 俺たちにできることはねんだよ」でしっかり回収されて笑顔 それはそうとこの言葉はリュウくんに会って必死に自分の言うことを聞かせようと、あの街から出そうとしたさるかわけ~自身にも、言い聞かせてんだろな……

「自分には何もできない」人に対し、何ができるか。もちろん人は誰かに救われることはできない。自分の救うのは自分しかいない。

「信じるまま道を往くそれだけが自分らしさ極めるメソッド」

最後は自分の信じる

では、自分以外の無関係な人に対し、いったい何をすればいいのか。なにもできないから、無力さにうちひしがれていればいいのか。おそらくそうならないための手段として、祈りがある。困難の渦中にいる人間に対し、祈ること。それは祈られた本人に届かない限り決してなんの影響も与えることがない。祈りは祈りでしかない。
本来「祈り」が届けられる対象は神仏だ。しかし単なる「凡人」に「祈り」を捧げたところで、その祈りが達成されることもない。仮に達成されたとしても、一般的に人は神通力なども持たないわけで、「祈り」が届いたから達成されたのだ、と思うことは傲慢にあたる。ふみやはカリスマであり、一般の人よりも何かしら人ならざる領域に踏み込む力を持つわけだが、自分がそれ以外の他者、ひいては世界に及ぼす影響を強く意識しているふみやであれば、「祈り」を意図的に行っている可能性もゼロではないと考える。

そして、そうえもんが頑なに「祈り」を忌避するのもわかる。彼はエネルギーの研究者である。エネルギーを辞書で引くと「仕事をする能力」だという。つまりそうえもんは「何かを為す力」に強く興味を持っている。ただいたずらに大きな力に執着しているわけではなく、その力が他の存在に対し影響を及ぼすものであるから、中神はここまでの執着を見せるのである。

そして「祈り」はその対極にある。「祈り」は誰にも届かない。かといって発した存在の価値を高めるわけでもない。つまり他に影響を与えないうえ、自分に有効に活きるわけでもない。中神にしてみれば、カリスマが求めてくれさえすればうまく使えばよりよい功績を見られたはずの願いが自己完結してしまうのは、カリスマという選ばれた存在の貴重なエネルギーの無駄遣いだし、看過できないのだろう。

おそらく「祈り」は総右衛門にも向けられているのである。総右衛門の主戦場は国の直属の研究所、つまり職場である。職場の人間関係というのはおおよそシステマティックなもので、そこで発生するコミュニケーションや関係性というものはおおよそ仕事に結びついている。ここには「祈り」の発生する余地はない。万一発生していたとしても、
では中神が「祈り」を理解できるにはどうしたら良いのか?
まず、自分自身が誰かに対し「祈る」ことである。しかし彼自身がすでに「祈る」ことに否定的である以上それは見込めない。ではどうすべきか。
解決の鍵は、中神が自分という個人に向けられた「祈り」を理解することにある。与えられた役割を超えた自己。それは決して、エネルギー研究の権威であったり、カリスマに敵対する新キャラクターであったり、面白箱推しおじさんではない。それだけではないといったほうが近い。それら全てを認識したうえで、そのすべてに対して祈りを捧げられること。
さて、本編中、中神のそばにはそんな人がたった一人だけ居る。


おわりに


そろそろ時効になりそうな記事すぎたので出しました。どっちも頑張って書きます。

二個目の記事のオチ、#91が来る前からこういう路線で考えてたんだけど、本当にこうなのかもしれない。

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