愛されたことを思い出すか、愛したことを思い出すか〜anagonの日記 1/7〜

今年は本を30冊は読もうと思い、早速年明けに手に取ってちまちま本を読んでおりました。

溜まっていた読んでいない本の中から、ぱっと手に取ったのが辻仁成の「サヨナライツカ」。

パラパラと見たら、タイが舞台っぽい恋愛小説だなと思って読み始めると、タイが舞台の不倫小説でした笑(不倫というか、浮気ですかね)

すごいざっくりどんな話かというと、
タイに転勤になった主人公が、日本に婚約者がいるけれど、タイで出会ったミステリアスでめちゃ魅力的な女性と逢瀬を重ねて、揺れ動く話でございます。多分。

内容は置いといて(いや、とってもよかったです。ぜひ読んでみてください)、文中に繰り返し出てくる
「愛されたことを思い出すか、愛したことを思い出すか」という言葉がとても印象的で、僕はすごくこのことについて考えました。

愛ということについては、死ぬほどいろんな人が考えると思いますが、
あくまで僕にとっての話をしましょう。

「愛される」というのは、質よりも量なイメージがあります。
どれくらいの人に好意を向けられたか、どれくらいその人が自分に時間を費やしてくれたか、どれくらい人から何かをしてもらったか。
そういったものが、わかりやすい愛されていることを計る指標になりがちです。
もちろんそうではなくて、心の底からの「愛してる」という言葉をもらった時、それは「愛された」という実感をもたらすものになりうることもあります。
でもやっぱり、「愛される」というのは、僕は量的なもので計りがちで、そしてそれは青天井で、いつも物足りなさを覚えてしまいます。

一方で、「愛する」というのは、量よりも質なイメージがあります。
量を取ろうとすると、「愛する」という感覚が薄れていく。
自分の中にある愛(愛情的な興味とここでは置き換えてもいいかもしれません)には限りがある。
だから本当に大切な人に、丁寧に気持ちを伝え、愛情を注ごうとする。
これはすなわち限りある愛の質を高めているのであり、「愛している」という気持ちがより純度が高ければ高いほど、「愛する」ということへの実感が伴うと思います。

さて、ちょっと何を書いてるかわからなくなってきましたが、

結論僕は、「愛された」よりも「愛した」ことを思い出して死にたいと思うのです。

どれだけ多くの人に愛されてもきっと僕はあんまり満足しなくて(愛してくれない人がいることの方に着目してしまうから)、そんな人間にとっては、「愛される」ということよりも、誰か一人でも「愛した」という方が遥に有意義であると思いました。

でも、愛されなくてもいいってわけではなくて、愛されることで愛するということがどういうことかを知ることができるので、愛されたことも思い出したい。

でもやっぱり、「愛した」ということに幸せを覚えて、僕は死にたいなと思います。

うん、ちょっとざっくばらんに書いたからよくわかんなくなっちゃったけど、なんとなくそういうことです。

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