ヘッダーコウ折り紙

ツイッターのアカウントを作った話と子供に手をあげた話。

何だか食べ合わせが悪いような口の中がゴロつくようなタイトルのかみ合わなさですが、そのまんまなこの頃です。ツイッターのアカウントを作りました。上にあるのはヘッダーに使った画像です。まだユーザー名すら決めていないので、設定を整えてしばらく使ってみてからnoteに書こうと思います。

・何で手をあげたのか

ざっくり言うと、「嘘の仕組み」を少し知ったコウが立て続けに問題行動を起こし、それがみるみる内に悪化していったからです。留守番中に鍵を開けて(そして開けっ放しのまま)無断で家を出て行ったこと、家庭でのタブーを短期間に繰り返したことから手をあげることになりました。

※普段から「ちょっと郵便局に行ってくるね」程度の短時間の留守番はしており、ここ数年問題はなかったという状況でした。

『カッとなって』という部分もありますが、道路を渡る時など危なさのある子であることから命の危険があることと、再三の注意を無視した挙句、「こんなに謝ってるのに!」と言い出すなど『自分は悪くない!』モードに入っている状態に、『いつか分かってくれれば』と待つわけにはいかないということで焦りがあったのが大きな理由だったと思います。

・叩くという行為はアリだったと思うか

叩くことが暴力であり悪い行為であるという意味でも間違った行動であったと思いますし、結果的にコウにとって効果的な行動でもなかったと思いました。長くなるのですが、今後の私の為に書いておこうと思います。

理屈で説いても時間をかけても回数を重ねてもどうにもならないとなった時点で、「似たような子供だった人の話」を探して複数読んでみたところ、それらの「かつてやらかしが止まらなかった子供が今になって振り返る話」には、共通する要素がいくつかありました。

まず、「家庭環境は悪くなかった」「親への信頼や愛されている自覚はあった」という人は結構多いようでした。それらの人達があげる主な理由に「衝動性の強さ」もしくは「規範意識のゆるさ」が目立ったのが印象的でした。

「規範意識のゆるさ」に関しても、教えられていないからというよりも「知っているけどバレなかったらいけると思った」「そもそも深く考えていなかった」というパターンが大半で、「悪いと思いながらやめられなかった・・・」という意見は少ない印象でした。中には『そもそも悪いと思うくらいでやめられる子供ならやらかしていません』と言い切るかってのやらかし少年もいて、そりゃそうだと言う他ない身も蓋もなさです。

では、『悪い』で止まらない子供を止める理由になったものは何かといえば、一言で表すなら『ヤバい』なのだろうという印象です。

何を『ヤバい』とするかは子供それぞれで、普段見ない親のブチ切れがヤバさになる子もいれば、警察官に叱られてヤバいとなる子もいます。進学を考える時期になり「このままではヤバい」と思った子もいました。

それらのことから考えると、コウは親のブチ切れでは止まらないどころか、「何か知らんけど親がめっちゃ怒ってる。怖い。」だけで終わる可能性が高いなと感じました。「何か知らんけど親がめっちゃ怒ってる。」を「これってそんなにヤバいことなんだ」に繋げられる能力のある子だったとしたら、そもそも今のあれやこれやはないだろうと思います。

コウは知的には高い子供なので、多分理論的には「親が激しく怒るほどヤバいことをやってしまった」に繋げることはできますが、感覚的には分からないだろうと思います。感覚的に分からないことは衝動性に余裕で負けます。

それらのことから、「親が凄い怒ってる」を教えることや、凄い怒らせることで何が起きるのか(信用が下がるなど不利益が起きる等)を教える必要はあっても、「親が凄い怒ることや叱ることそのものによってコウを止めること」は機能しないのではないかという仮説が私の中では有効になりました。

・「叩く」は有効性の低い行為である可能性が高い

私は昭和生まれの子供なので教師にもバシンバシンはたかれて育っているのですが、「子供は叩いて育てるべき」と思っていません。それでも叩いたのは、『親の本気を示す一つの方法』として『叩く』があると考えたからです。

そうしなかったことで何か事故が起きたり、よそ様のご家庭にご迷惑をかけたりした場合、「叩いてでもしつけるべきだった」という意見はあるだろうくらいにはメジャーな方法だと思います。普段からサクサク手をあげる親でもないのに叩くことによって、本気度を示すという方法です。

一定の効果はあるのだろうと思いますし、効果のある組み合わせの親子もあるのだろうと思います。が、私は私以外の保護者の方にも、叩くはおすすめできないと考えます。

そもそも、叩かなければ止められないと思うような、他に打つ手なしの状態の子供は、大体の場合「叩く」では止められない状態にあるのではないかと思うからです。

・愛情や信頼関係の不足・・・叩かれることで更に減ったり不信感を募らせたりする可能性がある。

・衝動性の強さ・・・「叩かれるくらい悪いことならやめよう」「叩かれると痛いし怖いしやめよう」と思える子は多分そもそも衝動性は強くない。衝動性の強い子はそれくらいでは止まらない。

・規範意識のゆるさ・・・叩かれても規範意識が高まるわけではないし、何なら「理由があれば叩いてもいいんだな」などの学習をしかねない。

というように、各種理由について考えてみても、叩くということの有効性の低さと博打性の高さは割合明らかなのではないかと思います。有効性が低いということは「叩いても止められない」ということであり、それは暴力のエスカレートにも繋がる危険性が高いことだと考えられます。

・やっぱり私にとって「叩く」は間違っている

子供を叩いていい気分はしません。脳裏に「虐待」の2文字がチラつきますし、殺伐とした空気に私自身がダメージを受けました。

力や場所は加減して叩いたので怪我はしていませんが、痛かっただろうしびっくりしただろうと思います。恐怖もあったことでしょう。『暴力の恐怖』はナシだと思います。世間的に子供に手をあげることへの批判が強くなかったとしてもナシだと思います。親と子の関係はどうしても不均衡なもので、強い立場にいる親が振るう暴力は「アリ」になってはいけないものだと考えるからです。

同時に、「もう叩くしかない」という親の追い詰められ感を体感したのも事実で、「叩くが駄目なら、じゃぁどうすればいいの?!」と途方に暮れる親御さんもいるのだろうなぁと思います。「何をどうしても子供を止められない」という状態になっている親子を救う方法が何かあるといいなと思いました。

・どうすれば良かったのだろうか

手をあげるのは間違っていたと思う一方、ではどうすれば良かったのかは今でも分かりません。普段手をあげない親が怒り狂ったという強烈さ以外で子供を封じようとするならば、猫を叱るより皿を引け方式しかなかったかなと思います。具体的には、子供に留守番をさせない。尚且つ一人で外に出さない、ですね。(一連のやらかしの中には、親の目を盗み行先を告げずに黙って家を抜け出し友人の家に行くというものもありました。)

監視社会&行動の制限というディストピアど真ん中な感じの状態にはなりますが、予告なしの突撃&夕飯時までの居座りにより『あの子と遊ばせたくない』と近隣の保護者に警戒される子供になること・交通事故を防ぐことには、早急に使える手立てなのではないかと思います。『いつか分かってくれる』までの間に事故が起きたら大変です。

当座の事故を防ぎつつ、条件を守ることと引き換えに制限を緩和していくことで「約束」というものを覚えていってもらうという形です。子供は大変ですし、親にも根気がいるだろうと思います。

・「すぐに解決したい」を諦めることについて

子供の問題行動、家庭内だけに収まらないものだとキツいなと感じました。園児程に幼い子供であっても、他の園児を叩いたり噛んだりする子供のお母さんなど「すぐに解決したい社会での子供の問題行動」ってあるだろうと思うのですが、その親の焦りは当然であると同時に、子供が急に変わらないのもまた当然なのだなという当たり前のことを改めて思いました。

子供は急に変われない。それは当たり前のこと。じゃぁ今起きてる問題行動どうするの?が難しいところです。「家から出すな」は解決のようでいて解決にはなっていないと思うけれど、「うちの子は他害しないのに!」という親御さんからすれば、止められないなら家から出さないで欲しいと考えるのは自然なことなんだろうと思います。

じゃぁどうするのと言えば、それはもう、すぐに子供を止められないのであれば、赤ちゃんを見守る勢いで目を離さず見守り、誰かに助力をお願いし、方々からヒソヒソされたり怒られたり謝り行脚をしたりするしかないということなのかなと思います。場合によっては家から出せないことも起こりうる状態。

自分も他人も凄く困るし迷惑だし。ということであっても、「すぐに解決できない」という現実が動かざる事実として鎮座していることって、たくさんあるんだろうなぁ・・・と思います。

『どうしても明日までにオムツが外れないといけないのに外れない!』

という事態を前にして、親御さんにも「今まで真面目にトイレトレに取り組んできた」という言い分があって、でも「私のやり方に落ち度があったのかも」という自責の念もあって、そしてそのどちらも真偽は分からなくて、『どうしても明日までにオムツが外れないといけないのに』も動かざる現実で・・・という状況があるとして。

そんな中、明日までにオムツを外そうと「今まで続けてきたトイレトレを続ける」「奇抜な方法を試す」「神に祈る」とか色々やってみるとして、そこで子供を恫喝したり叱りまくったり激怒ったりして解決するということはあまりないんじゃないかと思うのです。

それは何故かと言ったら、そもそも子供の成長の主導権を握っているのは子供自身だからなのではないかと思うのですが、親としては逃げでしょうか。

子供の能力とか成長のペースを親の思い通り都合通りにするのはやっぱり無理があるし、そもそも私の場合そんな力量もないし、もう「そこにいる子供というリアリティ」にひれ伏すしかないという感じがあるな・・・という風に思うのが今の私の素直な気持ちのような気がします。

ひれ伏しつつ、できることをどうにかこうにかやっていきたいと改めて思いました。

コーヒーを飲みに行ったり本や苗を買ったりすると思います。