燃やされたのは人間ではなく商品である

twitterは自分で流れてくる情報を決めるメディアであるので自己責任と言えるのかもしれないが、某アニメ会社の放火事件に対する「正義の暴走」には特にグロテスクなものを感じている。今まで「正義の暴走」に対する冷笑的な言説にあふれていた空間に、突如「正義の暴走」のテンプレのようなつらさが表出してきたからである。

この世界は死で溢れており、そのすべてに反応していては通常精神が持たない。したがって身近さに応じて死への反応が変わるというのはやむを得ないことではある。それでもここまで人命の価値に差があることをまざまざと見せつけられることになるとは思っていなかった。

今回の事件は親族や恋人、友人の死と同列に並べることはできない。反応を見ればわかるが、多くの人にとってはある固有の人命の喪失ではなく、自分たちの大好きなアニメを作ってくれる特殊な職人技能を持った貴重な人材が失われたことが嘆かれている。これはいうならば使用価値が失われたことが嘆かれているのであって、人間ではなく商品が焼かれたと考えていると見做した方がよい。

既にアニメを見て応援やら、某アニメ会社への寄付の動きなどが始まっているようだが、これはまさに某欧米の国の某聖堂が焼けた時の動きと重なるところがある。あちらはあちらで人命には金を出さない金持ちは建物には金を惜しまないのか!と揶揄されたものだが、こちらも人命が失われている点で見えづらくなってはいるものの、構造としてはほぼ同じと見てよいだろう。

「正義の暴走」が人命の喪失ですらなく、商品の損失に対して発動するというのは更なるグロテスクを生む。某施設での障害者の大量虐殺事件においては犯行に対して同情的な声すらあり、障害者の処遇について奇麗事を言ってはいられないのではないかというプラグマティズムを装った議論までなされていたと記憶している。一方で今回の事件を受けて「アニメを作っているようなやつはさっさと処分した方がいいのではないか」という声は一切聞こえてこない。消費者目線での生産性に直結してしまっていることは明らかである。使用価値が高い商品を棄損した凶悪犯のみに、報復としての厳罰が叫ばれ、また、その被害も嘆かれるのである。

今回の「正義の暴走」を止める動きは少ない。人命が失われている以上、普段から「正義の暴走」をする人々は平常運転であるし、いつもはこれを冷笑してきた人々がより一層の感傷的な「正義の暴走」をしているのだからこれは必然である。今回の事件から得られる教訓は恐らく1つであり、それはこの国では共産党が焼いたことにする施設は国会議事堂よりもアニメ会社にした方が効果的だろう、ということである。

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