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したためる

町家の並ぶ迷路のような路地で、不思議なたたずまいのブックカフェを見つけた。 何気なく立ち寄ったら、こんな手紙を受け取った。

「恐竜からの手紙」

茶封筒を開けると、恐竜の子ども(おそらく男の子)からのメッセージが、3枚にわたってしたためられていた。

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なんと、恐竜なのにパソコンで書いてる。

そこに書いてあったのは、大雑把に言えばこんなこと。

そう遠くはないうちに仲間がみんないなくなってしまうかもしれないこと。
彼のお父さんが、自分たちが生きた証を物体として残そうとしていること。
それを真似て自分も、手紙という形で証を残そうと思ったのだということ。

恐竜のそれとは思えない柔らかな語り口調と、最後に添えられた「体を大切にね」という一文に、思いがけなく小さく感激した。

それと同時に、わたしは生きた証を残せるのだろうかと、ふと考えた。

恐竜は化石になることで、何千万年もの時を超えて現代のわたしたちにその存在を知らしめた。

じゃあ、わたしが死んだら何が残るだろう。生きた証として何を残せるのだろう。

わたしは独身だから子どもはいないし、地位とか財産とかほぼ無縁だし、手先は不器用だから何も作れない。ましてや骨なんて、他人からしたらただの人間の骨じゃんかで終わってしまう。

だったら何かことばを残せばいいじゃないか本業だもの、って? なるほど、確かに。いやいやしかし。偉人ではないのだから、ただの庶民のことばが後世に残るはずもなく。

・・・うーん、やめやめ。じわじわと切なくなってくるから、この話はやめよう。何も残せなくてもいいじゃないか。

それならいっそ、この子恐竜のように手紙をしたためてみよう。

ネット上では一瞬で埋もれてしまうことばも、手紙という物体にのっければ、捨てられない限りは残ってゆく、かもしれない。

世界中の人を勇気づける偉人の名言にはならなくとも、どこかの誰かの机の引き出しの奥でひっそりと眠り続けるのもいいかもしれない。
欲をいえば、机の引き出しの奥で眠りにつくまでに一度くらい、どこかの誰かの心にふっと小さな明かりを灯してみたい。

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万葉集が好き。和歌にちなんだメッセージを手紙あるいはカードにするとかいいかも。

そういえば、「したためる」は漢字で書くと「認める」。つまり、認める(みとめる)と同じだ。

文をしたためることでわたしは自分の存在をみとめ、わたしの書いた手紙を読むことで相手はわたしを認識してくれる。

そう思うと、手紙の最後に自分の名前を記す時、ああわたしは確かにここに存在するのだなと、わけもなくうれしくなる。

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ブックカフェからほど近い町家カフェでいただいた、自家製あんこのおぜんざい。

さて。

恐竜からの手紙は、もちろん本物の恐竜が書いたものではありません。
「何者からかの手紙」と銘打って、とある作家さんが書いた手紙小説です。ほかにも、「ライト係」「酔っぱらい」「つちのこ」など、架空の「何者か」による手紙があるそうです。

もしかしたらあなたも、ふらりと立ち寄った場所で、「何者からかの手紙」を受け取るかもしれません。

でもその前に、この日記のような手紙のような、とりとめのないわたしのつぶやきを受け取ってくださってありがとうございます。

今は顔も名前も住所も知らないあなた。もしいつかどこかで出会えたら、今度は手書きの文字で、ちゃんとお手紙書いてみたいです。

それでは三寒四温の折柄、ご自愛くださいね。

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