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珈琲屋での格闘

 いつもの珈琲屋さんまで電車に乗って行く。自分にゆとりを持たせるための週一のルーティーンにしている。

 春の陽気に誘われて、「最近あったかくなってきたもんなあ」とアイスコーヒー飲みたい気持ちが湧いてくる。しかし、こういう時はいつもホットコーヒーを頼むようにしている。冷たいものを飲みたい気持ちは、水を一口クッと飲んだら収まるのを僕は知っている。そのあとは温かいコーヒーのほうが体に染みる。そして安心できるし、何よりゆっくり飲める、、気がするからだ。

 だからアイスコーヒー飲みたいなぁという気持ちに蓋をして、「絶対ホットコーヒーだぞ、わかってるよな?俺」と思いながら入店し、メニューを開く。アイスコーヒーは後ろのページにあるのは知っているが、絶対開かない。ホットのシングルオリジンメニューが羅列されたページを開く。

 ここからもメニューとの対話が始まる。浅煎りか、深煎りか、中煎りか。まろやかな、しっとりと、しっかり、甘い、どっしり、深い。そんな深煎りの注釈を読みながら、「今日は疲れてるから、なんだか癒されたいし深煎りかな?」と考える。一方で、軽やかで、酸味があって、サラッとしてて、なんて書かれてると「疲れてるからこそサラっと浅煎りが飲みたいんじゃないの?」なんて考えが浮かんでくる。

 しかし実は答えは決まっている。僕は深煎りが好きなのだ。元気な時は「しっかりとしたコーヒーとがっぷりよつにぶつかりたい」と深煎りを頼み、疲れた時は「甘みとまろやかさに癒されたい」と深煎りを頼むのだ。中煎りまでは頼むこともあるが、浅煎りは結局は頼まない。

 深煎り、中煎りの候補の中から、ビビッとくる豆を選ぶ。マンデリン、ガテマラ、、何にしようかと。その中から今日はボリビアのオーガニックピーベリーにしようと決めた。昔旅行したボリビアの大地を思い出したら、懐かしい気持ちになったからだ。旅と紐づくから珈琲は良いんだよな。

 そんな感じで毎回自分会議を開く。この数分の無駄に迷う時間が好きだ。余計な脳みそを使わないために毎日同じ服を着るスティーブ・ジョブスには笑われるかもしれないような、「省略可能な時間」を省略しないのが、自分にとって大事な休息なのだ。答えは決まっているのに何か理由を見つけて今日は深煎りだ。と思いたいのだ。

 しかしこの日。注文しようとして店員さんに声をかけた瞬間である。隣の席にアイスコーヒーが運ばれてきたのだ。しかもシングルオリジンで深煎り。

「うわー、そんなんありかよ、、ずるい。」

 そう思って、僕は注文を取りに来たお姉さんに慌てて言ってしまった。

「アイスコーヒー、シングルのバリで、、」

 先程の思考が一瞬で全て覆された。まさに鶴の一声ってやつである。こんなタイミングでのアイスコーヒーが隣に届くからだ。絶対ホットコーヒーだと思っていたのに。こんなに簡単に揺らぐなんて。情け無いが仕方ない。

 お姉さんは今日はアイスで珍しいと思ったのか、「アイスの時はシロップ使います?」と聞かれてしまった。ホットの時はブラックだと認識されてるので普段聞かれることはないのだ。

 届いたアイスコーヒーを飲んだら、とても美味しい。わかってるんだよ、美味しいのは。しかしわかっているけど、アイスコーヒー飲むならその前に冷たいお水をクッと飲むべきではなかったかもしれない。次はホットだよ、絶対。絶対だぞ、俺。そう思いながらもアイスを楽しめた偶然になんとなく満足している自分もいる。

 こうやってちまちましたことを考えながら、僕は生きている。世の中では、ビジネス感覚と結びついて、無駄がないものが美しいといわれることも多いが、僕はわかりにくいことや、ぼやぼやしたものや、矛盾にあふれたものも好きだ。そもそもあらゆることに真っ当な理由なんてない。伝統は作られるって文化人類学でも言われるくらいだ。本当は決まり事なんてなくて、誰かが決めただけなんだ。本当は曖昧で、ぼやぼやしてて当然なんだ。

 物事を整理して、わかりやすくしたら簡単だ。何も考えなくてよくなる。だからジョブスも毎日黒い服を着るのだ。脳みその無駄遣いをしないために。でも、人間はそもそも曖昧でぼやぼやしてて、特に理由なんてない生き物なのだ。ジョブスみたいにとんでもない意思決定に脳みそを奪われなければ、毎日ぼやぼやしてたっていいじゃないか。

 だから、僕がアイスコーヒーを頼んだのも、間違いじゃないんだ。美味しかったから。偶然を楽しむとはまさにこのことじゃないか。これがcoincidenceってやつでしょう。

 考えごとをしながら、「自分のアイスコーヒー注文、あながち悪くなかったよな」と自分に言い聞かすだけの30分を過ごした。

 この時間を過ごすために珈琲屋さんに来ていると言っても過言じゃない。それも単なる理由づけだけども。


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