メキシコ9

気がつけばトウモロコシ畑に囲まれて/Mexico/たびのきおく


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メキシコの小さな村へ流れ着く

 大学を休学してしばらく海外暮らしを続けていた2012年の8月の話。

 お金なんてほとんど尽きていて、バックパッカーだとも言えないぐらい小さなリュック一つで、名前を聞いたこともないようなメキシコの村に向かっていた。何度もバスを乗り換えるうちに、バスは指定席から自由席へ変わり、窓ガラスがないものに変わった。最後のバスは天窓も壊れていてスコールがまんま車内に降りこむような、そんな開放感にあふれたマイクロバスだった。

 運転手が目的地を告げ、バスを降りたら、いかにもメキシコ人体系な太っちょの青年が土砂降りのなかで傘もささずに立っていた。彼ははちきれんばかりの笑顔で「Hola!」と声をかけてきた。目的地についた安心感から少し肩の力も抜け、彼にぼんやりと挨拶を返していると、そのまま、あれよあれよと村の方まで引っ張られた。村への道は果てしなく続く田畑に囲まれていて、見たこともない植物の葉たちが、雨露を受けて激しい音がなり響いていた。 

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 その青年、アルトゥーロにつれられて彼の自宅についたころには雨はすっかり上がっていた。彼の自宅は雑貨屋(メキシコではアバローテと呼ぶ)を営んでおり、お店から家族たちが飛び出してきた。彼はヒップホップを聞いて独学で覚えたとかいう拙い英語を駆使して、僕を家族に紹介してくれた。彼の父母のカルロスとクカ、そして叔母にあたるミロス。みな 60 歳ぐらいでぽっちゃりとした風貌である。彼らはもちろん英語を全くしらないようで、早口のスペイン語で畳みかけるように話しかけられた。内容は殆どわからなかったのであるが、「ようこそ! 」というニュアンスであることは理解できた。何せ、満面の笑みである。歓迎してくれているのはビシビシと伝わってきて僕はすごく安堵した。アルトゥーロはまたしても拙い英語で「ユーアーファミリー、ユーアーフレンズと言ってるんだよ」と大雑把な翻訳を付け加えてくれた。 


 それから僕は、独身で一人暮らしをしているミロスおばさんの家に泊めて頂くことになったようで、自分の部屋をあてがわれて荷物と腰を下ろした。その日は長旅で疲れていたのですぐにベッドに横になった。
 「とりあえず流れでこんな辺鄙なところまで来てしまったものの、明日からどうするのだろう。僕はここで何をするのだろう。いつまでいるのだろう。まあ取りあえずは考えないでいいや。」そう思いながら瞼を閉じた。


 なぜ、こんな見ず知らずの地球の裏側の村までやってきてしまったのか。ここに至るまでにはなんとも説明しきれない程の長い経緯があった。
 出迎えてくれたアルトゥーロは僕がカナダワーキングホリデーをしていたときに出会った友人、カルラの弟である。メキシコに来る数週間前、カナダでバイト先が潰れてしまって、僕は稼ぎも住み場所も失い、知人の家の床で寝るだけの不毛な生活を過ごしていた。そのときに、カルラは「メキシコにきてよ!あなたの家はここにあるわよ!」とメールを送ってくれたのだった。日本だったら社交辞令かと疑うようなその言葉も、あの陽気なメキシコ人が言うのだから、言葉の通り受け取ってみようと思い、その日のうちにメキシコ行きのチケットを予約した。どうせカナダにいても良いことはないし、メキシコでもなんでも行ってみようじゃないかと考えた。

 しかし、メキシコに来て肝心のカルラと感動の再開をしたのもつかのま、彼女に「新しい仕事が忙しくて相手できないから、私の実家に行ってみて」と言われてしまった。ここまで来たら、もはや「えいやー」という気分だった。僕はその言葉を信じて、名前も聞いたこともない村へ何本もバスを乗り換えて向かうことにしたのだ。そうして僕はメキシコの中西部にあたるミチョアカン州に属すトクンボという小さな村にやってきたのだ。

村での生活

 翌朝起きると、ミロスはコーヒーを淹れて笑顔で待ってくれていた。おはようと挨拶をして、食卓に向かうと朝食が待っていた。トルティーヤに豆のペースト、目玉焼きにフルーツという素朴なメキシコの朝ごはんを一緒に食べながら、ミロスとお話をした。こんなこともあろうかとカナダで買っておいたスペイン語の辞書を片手に、ゆっくりとゆっくりと言葉を紡いだ。カルラと過ごしたカナダでの日々のこと、自分のこと。家族のこと。ミロスは僕の拙い言葉にじっくりと耳を傾けて、ゆっくりと返事を返してくれた。そして最後に一言、「私の家はあなたの家よ。ゆっくりしてくれていいからね。」と伝えてくれた。

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 その日のお昼は家族や友人たちでパーティをするということで、連れていってもらった。畑の中の手作り小屋に続々と人が集まってその都度、ミロスが僕のことをみんなに紹介してくれた。パーティは持ちより式で、ピクルスのようなものや、サルサがテーブルに広げていた。また男性人は薪を燃やして豪快にトウモロコシの丸焼きをはじめ、主婦たちは村の伝統料理だとうウチェポスという料理(生のトウモロコシのすり身を蒸した団子のようなもの)をせっせ調理していた。メキシコ人はトウモロコシを主食としていて、あのトルティーヤもとうもろこしでできている、ということをその時、初めて知った。

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また日本のものと比べて若干姿かたちが違うので気づかなかったが、360 度回りを囲んでいるのはトウモロコシの畑であることにようやく気がついた。一面のトウモロコシ畑に囲まれながら、豪快にトウモロコシをほおばった。なんて自然な甘みなんだろうか、目の前で育っているものを目の前で豪快に食べること自体が人生で初めてだ。僕は感動を伝えたくて、辞書を片手に言葉に紡いでみんなに伝えるとカルロスは、おもむろに僕を畑の中に引っ張りこんだ。畑の中にはレモンの木があり、彼はレモンを木から千切って、トウモロコシにかけてくれた。「こうしたらもっとうまいんだぞ」と。おまけに隣の木からアボカドを千切ってむいてくれた。甘くて素朴で力強い味がした。僕が「日本ではこんなことはなかなかできない」というと彼は不思議そうな顔をした。

メキシコ5

 そのパーティではみんな昼からビールやテキーラを飲んでへべれけになり、ときに口論し仲直りし、酔っぱらった癖にみんなバイクにまたがって帰って行った。僕はミロスと一緒に家に帰った。
 家につくと、ちょうど夕方ごろでスコールが降って来た。僕はミロスと一緒にソファで横になった。ミロスがこの季節は毎日決まってこの時間に雨が降ると教えてくれた。僕が「雨だからイヤだね」と話すと、ミロスは「私は雨が好きよ。だって涼しいじゃない。「家の中で昼寝して休めるじゃない。」と返した。確かにそうだな、と思った。そんな発想は抱いたこともなかったから少し目からうろこだった。そんな話をしながら僕はミロスと長い昼寝を楽しんだ。

 目が覚めると夜の七時だった。ミロスも起きていて、夕食に連れ出してくれた。村人たちのほとんどは昼ご飯をたらふくたべて、夕ご飯を軽く済ます。そして夕飯で人気なのが、日本人もご存じのタコスである。メキシコのタコスはトウモロコシでできた柔らかいトルティーヤに焼き立ての肉を挟んで、お好みでサルサをかけて食べる。僕は病みつきになってメキシコ人も驚くほど沢山の夕ご飯を食べた。そんなこんなで、濃密な一日は終わった。

独立記念日のお祭り

 いつまでここにいようかな、と毎晩考えながらも、家族のやさしさに甘えて村での生活はそのまま 2 週間ほどが経過した。数えきれないほど辞書を引いてちょっぴりスペイン語がわかるようになり、新たに出会った村人たちとも仲良くなって、また毎日沢山の新しいメキシコ料理に出会い病みつきになってきたころ、僕はミロスから 9 月 16 日にメキシコの独立記念日のお祭りがあることを聞いた。どうやらスペインから自由を勝ち取ったメキシコにとって、独立を祝う日はとても大事な行事であるようで、3 日もかけて盛大に祝うそうである。
 祭りを 1 週間後に控え、村はどんどんお祭りモードが高まっていった。小中学生たちは、太鼓をたたいて行進の練習を始め、主婦たちは 1 週間前からお祭りの屋台で販売する伝統料理の練習や仕込みを始めた。僕はふと、この祭りが終わったら日本に帰ろうと思った。時間をかけて準備する彼らと一緒に記念日の瞬間を味わうことができたら、気持ちに区切りがついてカナダから続く 1 年近い旅を終わらせられる気がした。
 そんな中である日、ミロスは車で隣の村までつれていってくれた。隣の村にはミロスたちより一回り浅黒い肌の人たちが住んでいた。僕たちは彼らの食堂で素朴なご飯を食べた。ミロスによると、ここらへんにはスペイン語ではなくプレペチャ語やサポテコ語などの言葉を話す多数の先住民が住んでいて、ミロスたちもまた様々な血筋の混じり合った存在であるとのことらしい。日本と比べるとえらいことだ。彼らのもつバックグラウンドは如何に複雑なものなのであろうか。僕はそれを聞き出すほどのスペイン語力がないことをもどかしく感じつつも食事を終え、ミロスと村まで帰った。

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 いよいよお祭りの 2 日前になった日、僕は村の広場で若者たちからとんでもないお誘いを受けた。メキシコシティから各地への学生聖火リレーの村人代表の一人として走ろうよ、というお誘いだった。この村にきてから色々とカルチャーショックをうけながらも飲み込んできたが、今回ばかりは心底驚いた。独立記念日の聖火リレーになんで日本人が走るのか。しかし、彼らにそれを問うと、「お前はアミーゴだから一緒に走ろう。日本人だとか関係ないだろ」と一蹴された。どうやらこの人たちの感覚というか寛容性は僕らのものとは違うのだろうな。と改めて気づいた。むしろ僕は余計なことを気にしすぎなのかもしれない。僕は参加を決めて翌日の集合場所を教わり、ユニフォームを受け取った。

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 そしていよいよ祭りの日が来た。3 日間のイベントはとにかく盛大なものであった。メキシコ全土に散っている親族たちはみんな村に戻ってきて人口は 3 倍以上に膨れ上がり、広場は人でごったがえした。僕はいよいよ聖火リレーに参加すべく若者たちとトラックに乗り込んで会場へ向かった。会場で一人目の若者が聖火を受け取り、いよいよリレーが始まった。僕らは小刻みに交代しながら、村まで走ったのだが、道中何度も火が消えたのを気にせずライターで付け直すのがなんともメキシコらしく、それでも笑いあいながらついには村にたどり着いた。村ではイベントが架橋に差し掛かっており、僕らの聖火が到着すると、村人は一斉に「ビバ・メヒコ」の雄たけびをあげた。なんという一体感だろう。彼らの声は村中に響き渡っていた。ステージから村人をよく見ると、彼らの肌の色や顔立ちや身長や髪の色や、決して一つのものでないことに気付いた。それでも彼らは一つであることを感じた。僕はその瞬間メキシコ人でも日本人でもなかった。彼らと同じ存在であるということを強く感じた。

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 祭りも終わり僕は彼らに別れを告げて空港へと長いバスの道のりを引き返した。メキシコには結局のらりくらりと 1 か月以上滞在してしまった。なんだかよくわからないけど、とてもふしぎなこと気持ちを沢山味わった気がした。日本に帰って色々噛み砕いて考えよう。僕はとても大切なことを学んだ気がするのである。


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