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個人が社会の一部だと突きつけられた1年だったから、そのつもりで動きたい。

去年も4月1日につれづれなるままに書いたから、定点観測のように記録してみる。

1年で「当たり前」が大きく変わった。マスクをするのも、どこかに入る時に検温とアルコール消毒をするのも。家族が家でそろっているのもあたり前になった。

そして、人が亡くなる話もたくさん聞いた。
なんとなくニュースで出てくる言葉が物騒になった。
それでも、あたりまえに日常は続いていく。まるで何事もないかのように。


学者とか有識者と呼ばれる人たちは、みんな自分たちのことを大きな集団としてとらえる。それは「人類」「社会」「世界」とかいう言葉。そんなの、学校で習った。んだけど。

切羽詰まった状況では、私たちは個人単位じゃないことを突きつけられている気がする。要するに個人が消えても集団が存続することを選ぶ、という理論で、話が進んでいく。あれ…ちょっと前までそんなのは、戦争に行ったおじいちゃんの昔話だったはず。

子どもを筆頭に、家族は私にとってはかけがえのない個人。でも社会にとっては社会の一員でしかないということに絶望感すらおぼえる。まだまだ悟りは開けそうにない。


家事を効率化していたころ、たくさん家事の本を読んでいた。そのうちの一つが高木ゑみさんの「考えない台所」。今でもよく覚えてる。そして昨日、訃報を聞いて絶句した。

個人の悲しみなんて見せない人。最期のときまで、オンラインならできると言い、自分が生きている社会に対して提供できることを届け続けるその姿勢。この人は、社会を、世界を見て生きていたんだな。そして、若いけど、生き抜いたんだろうな。


今日はエイプリルドリーム。私の夢は

亡くなるときに「いい人生だった」と言って笑顔で旅立つ人で溢れる世界に

実体験から湧き出た、ずっと変わらない20代からの私の人生のテーマ。
だから生きがいとか、働きがいとか、wellbeingとか、幸福とかのために、今は可視化を使ってコミュニケーションを産みだし、このテーマに繋がる活動をしています。

でも、それだけじゃないとずっと思ってる。

私に何ができるだろう。個人が社会の一部なら、個人で羨んだり競争したりしている場合じゃないし、何かに固執してる場合じゃないという思いが、よりいっそう強くなった。いろんな人と手を取り合いたい。複数人で活動するときはある程度役割がある。その役割も、得意とか得意じゃないとか、やってみないとわからないから、やってみる。

「残すに値する未来」に、一歩でも近づけたらいい。
わたしの、子どもたちの、大切な人たちの、未来の社会の、ために。


(追記)いやーつらつら書いたら我ながら重いよね。でも、人間は多面体だから、こういう面があってもいいと思ってる。私はずっとそれがベースなので、毎日は、明るく過ごしたいし、明るい話がしたいし、誰かの希望になるような活動がしたくてたまらない。

ちなみに今、そこにほんの半歩踏み出す活動として、私としては今までやったことない種類の挑戦が目前に迫っているので、、密かに応援いただけるとうれしいです。近いうちにSNSでお知らせします。

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