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「百合中毒」

誰もが、何かの中毒になって生きているのかも知れない。

読後にこの本のタイトルを振り返ってそう感じました。

二十五年前に二十歳下のイタリア人女性シェフと暮らすために家族を捨てて出て行った夫が、突然家にもどってくるところから話は始まります。

二十五年の間に、妻には別の交際相手ができ、娘達はとっくに大人になっていました。
妻は交際相手と結婚する約束をしています。
長女は結婚したものの、夫とあまりうまく行っていません。次女は結婚せず、職場の上司と不倫関係にあります。

主な登場人物は八人。
家族四人とそれぞれのパートナーです。
その八人それぞれが一章ずつ語り手になって話は進んでいきます。

一見、結婚している身でありながら家族を顧みず若い女と暮らすために出て行った父親が悪者のように思えますが、話はそんなに単純ではありません。

登場人物達はみんなそれぞれが、いろんな事情を抱えています。誰が、あるいは、何が良いとか悪いとかを簡単に判断できることはひとつもありません。まさに、人生は玉虫色だということを読み進めるほどにじわじわ実感していきます。

人にはそれぞれ事情があります。それを慮って日々人と接するべきだということは、頭では分かっているつもりです。

でも、そう簡単にはいかないことは、誰もが経験していることだと思います。

頭でわかったつもりになっているだけでは、人はなかなか変われません。
結局、だれもが自分勝手に自分の想いで生きていくことしかできないのです。
だから、人の数だけ、感情のもつれは発生します。

登場人物の悩みや感情を味わいつつ読み進めた先に、映画のフィルムが突然切れたように話は終わります。

読後感は、わりともやもやします。

というのも、わかりやすい解決策も答えも結論も何もないまま、まさに、これからまた一波乱ありそうというところで話が終わるからです。
この先も二転三転して人生は続いていくということを予感させる終わり方なのです。

そして、それこそが人生そのものなのだと改めて実感させられるのです。

さすが井上荒野さんの作です。本物の大人にしか書けない、鋭い目で周りを観察しているからこそ書ける、話です。

その観察眼の鋭さの一端が、年齢を重ねた女性を描くときの表現に現れています。
たとえば、

老女の象のような皺の中に埋もれている深紅のビキニ

ほかにも、髪も肌も全身埃を被ったようなという表現もでてきます。

生きて行くということは、美しいだけではすまされない。
それでも、人生は最後まで生きて行かなくてはならない。
その覚悟を問われているようにも感じました。


余談ですが、標題の百合中毒は、へメロカリスのことを指していて、猫には猛毒です。もっとも、百合全般が猫には毒ですので、ご注意を。






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