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ぼくとおじさんと - 僕と文乃の一日

番外編⑤ 僕と文乃の一日 ep.1

「トントントン」というリズミカルな音が耳のふちに届いた。
懐かしい音とリズム。おふくろが台所でまな板に載せたものを包丁で調理するときの響きだ。
目を開くことなくリズミカルなその音に聴き入る。二人の女性の楽しそうな笑い声が聞こえた。
山口県の研究所から昨日学会の集まりに参加した文乃の同級生で、僕らのマンションでの食事会兼飲み会に来てくれた佐藤さんが、文乃と二人で朝食を作っているようだ。
瞼を開き時計に目をやると朝の7時で、昨日の酒が未だ残っているのか文乃に声をかける気力もないまま再度の眠りに入ってしまった。耳の奥で賄いの音がこだましていた。
うとうとと微睡みの夢の中を彷徨していると暫くして文乃の声がした。
「武志、起きているの。これから佳ちゃんを送ってくるから。冷蔵庫の中にあったものでマーボー豆腐作ったから食べてね。駅までの見送りだから、一時間ほどで戻るから。」
文乃が玄関のドアを開ける音と佐藤さんの「武志さん昨日は楽しかった、どうもありがとう」という声がドアを閉める音にかぶさりながら、後に静寂を残して二人は駅に向かった。
昨晩は三人で昔話しで盛り上がり、やがて二人の関わる専門の話に二人の息があったのを機に僕はテレビドラマに集中し、少し飲みすぎたこともありそのまま寝てしまったようだ。
どのようにベッドにまで戻ったのか、覚えていない。
文乃と佐藤さんは居間のソファーに布団を掛けて寝たようだ。女性の話は長いと思っている僕には、二人が遅くまで寝ながら話していただろうと想像している。二人は昔から仲の良いグループを構成していた気心の合う友人なので、そこまで話し合うこともあったのだろう。
居間に出てテレビをつけると8時の時刻を告げていた。僕は一体何時に寝たのだろう。眠気と酔いが残っている。
テーブルに目をやるとマーボー豆腐と果物、トーストが置いてあった。ご飯も炊いてあったのでどちらでも選べるようになっている。麻婆豆腐も朝からの食べ物としては辛みを抑え、豆板醤が僕の好みで使えるように置いてあった。文乃らしい心遣いだ。
水を飲み、喉を潤してから気持ちと姿勢を整えてトーストと麻婆豆腐を未だムカつく胃に流し込んだ。
テーブルを挟んでテレビに目をやるが、意識が朦朧としてテレビキャスターの睨むようにして話す言葉が煩わしく、テレビのリモコンのオフを押して窓の外を見る。
今日は文乃と過ごす休みを取ったのだが、昨日の供応が後遺症として僕のやる気を蝕んでいる。文乃も飲んでいたので疲れているだろう。どこかに出かけるという大胆な夢も蝕われているようだ。
昨日までの文乃との話も、佐藤さんをどのように持て成すかという事で、結局コンビニでの買い出しに落ち着いたのだが、今日の休みに何をするかという事まではたどり着かなかった。
文乃が帰ってきたら聞いてみよう、受け身の僕の今日の始まりとなった。
バイクで回るような場所も思いつかない。それよりもバイクに乗る体力が今はない。
何もすることが無い時、あれこれ話し合うのが僕たちの楽しみだが、今日は寝転がってでも話すことを考えてみよう。
このあいだ、深夜に目覚めてから見たNHKBSのイタリア北部、山の中を走る100年前に作られたボロボロの蒸気機関車を修理して走らせている田舎の駅舎や修理人たちとその汽車が走る山間の谷や、山を這い茂る木々の緑にまつわる自然の話も面白かったが、見捨てられた田舎に住む人々と古い蒸気機関車に絡むコミュニティが現代との対比で話すのも結構面白い話題になるかもしれない。
そうそう、今僕がやっている「酒」に関する調べもの、それはコンビニのホールでよく聞かれることで、酒やワインの品評から始まって酒の歴史やラベルに書いてある意味を僕自身が理解するだけでなく店の皆に知ってもらえるような指導・解説文書を作っていることも文乃に話せば話題として話が広がるかもしれない。
いつも文乃と話をしていると、いつの間にか二人の話が共通の夢のようになっていって二人で楽しみ語らうことが出来るので、それはそれで僕の楽しみでもあるのだ。
酒の残った頭で日の射す壁を眺めながら漠然と考えていると玄関のドアの鍵音と同時に開くドア音と一緒に文乃の声がした。
「武ちゃん、起きているの。」
「僕はここに起きている。フミの帰りを待っていたんだ。朝食ありがとね。」
文乃は上張りを壁に掛けながらテーブルをのぞき
「あら、パンだけでよかったの。」と、聞いてくる。
二日酔い状態だと言うと、「私もよ」と言う返事だ。
「少し休みたいのだけれど、時間がもったいないから少し休んで公園でも散歩しない。外は晴れているし、外の空気を吸えば元気になるわよ。」
以前、学生時代に文乃の部屋に居候をしていた時は、お互いの時間や世界観を大事にしていて二人ともマイペースで暮らしていたが、今はお互いを必要として暮らしているようであの時とはまるで別の人生を僕は生きているようだ。
これは年を取って成長したというのか、僕のわがままから真人間になったというべきなのか、ただ言えることは二人で何かを作ろうとしていることだ。
ソファーに寝そべっている僕の横に腰かけて文乃は背もたれに体を預けた。
「佳ちゃんが、昨日は楽しかったと言っていたわ。武ちゃんもご苦労さんでした。」
「僕は高校以来だから久しぶりだったが、あの時と全然変わっていなかったな。
ところで、彼女の前ではなんで僕の名前をフルネームで呼ぶんだい。」
いつもはフミ、武ちゃんで呼び合っていたので、苗字は別にして名前まで高校時代のような呼び方をしたことに若干の違和感があったのだ。
「ごめんね。悪気はないのだけれど、佳ちゃんは高校時代に武ちゃんが憧れの人だったので、その人を私が独り占めしているようで、彼女に悪いから少し突き放して呼んでみたの。」
昨日、酔った勢いで彼女がそんな告白をしていたが、それは酒の勢いで僕も笑って対応したのだが、それと名前の呼び方とどう関係があるのだろうか。
「実は、彼女結婚したけれど、旦那さんと上手くいってないの。そんな彼女の前で私たちが仲良くしているのがどう映るのか。呼び方だけでも、彼女を傷つけたくなかったの。だってあなたが彼女の憧れの人だったから。」
たとえ昔の話だったにしても、僕がどう見られていたのか知る由もなく、言われてうれしいような照れくさいような気持ちなのだが、文乃の人を傷つけたくない気持ちも分かるようで分からない。
男と女は違う生き物だと思っている僕には、いまだに女は分からない。
「私も、もし子供が出来たら武ちゃんをお父さんって呼ぶのかしら。その時には私はお母さんなのか、それともオイって呼ばれるのかしら。」
文乃が楽しそうに話してくる。
もし子供ができなかったら、歳をとってもいつまでも武ちゃんじゃおかしいじゃないか。でも、まあいいか。そんなことを今から心配しても始まらない。
僕たちはコーヒーを飲んで外に出ることにした。
雲一つない晴れた青空は、吸う空気までさわやかだ。この空気を吸い続ければ体に残ったアルコールも浄化されよう。
昨晩の佐藤さんとの話をしながらおじさんのいるマンションの前を通ると、一階の芝生の奥から安堂のおじさんの甲高い声が聞こえた。
「あら、安堂のおじさんが来ているんだ。」
文乃がうれしそうにささやく。
「おじさんに頼まれごとあったんだ。寄っていこうか。」
二人で鍵のかかっていない玄関から居間に向かう。
安堂のおじさんといつものおじさんが一升瓶を間において話をしていた。
「おっ、文ちゃんが来たんか。なんだ、武志もか。」
安堂のおじさんのいつもの対応だ。
「すいませんね。僕がいたんじゃ、場が盛り上がらないで。すぐ出ますから。」
僕のいつもの対応だ。
「おじさんに頼まれた抗議集会、行けなくてすいませんでした。」
開口一番に、おじさんに謝らなくてはならないこととは、ヘイトスピーチの団体が川口に来ることでその抗議集会に誘われていたのだが行けなかったことだった。
ヘイト集団は差別的な言葉でデモを繰り返し、あちこちで批判されている団体だ。
川口には外国人が日本でも1、2を争うぐらい多く、クルド人も2000人ほど住んでいるが、今回の入管法改正で難民申請が2回受理されなければ強制送還されるという事が決まり、難民申請が受理されないクルド人の不法滞在に関して市として対応するという議案が市議会で通った。おじさんによるとそのことに乗じてヘイト集団が川口で活動を始める契機とするために政治団体を名乗って川口に乗り込むという事を、川口市民として抗議行動を起こすので参加してくれというものだった。
「武志も貧乏暇なしで忙しいから、別にいいのだけれど、ちょうど今その話を隆俊と話をしていたところだ。ところで、ここに俺がいるのがよくわかったな。」
安堂のおじさんのでかい声は10m離れていてもよく聞こえる。探して尋ねる苦労を必要としない人だ。ただ今日はおじさんを訪ねてきたのではなく、謝りに来たのだ。
抗議行動も必要と思うが、相手も右翼をバックに行動していると聞いているので怖かったのと、店もバイトの休みもあったりで僕自身参加することはしなかった。
だから、今日も話が済んだら早めに退席するつもりでいる。
「武ちゃんから話を聞いた時、私も応援に来ようと思ったの。無責任で差別的なヘイトスピーチには反対で、思っているだけではなく実際に抗議しなければならないと思っていたのだけれど、仕事があって行けなかったの。ごめんなさいね。」
文乃に行く気が合ったのは今知った。確かに彼女は行動派だという事は知っていたが、色々関心を持っていることには頭が下がる。それに比べて、僕は何なんだ。
「それじゃ二人に報告しておこう。」
安堂のおじさんは手前の湯飲みに入れた酒を飲み干すと、一升瓶から継ぎ足して話を始める。誰が見ても水かお茶を飲んでいるとしか思えない。
「前回、二週間前は我々市民が小さな車で宣伝している彼らを見っけ、公園の奥に集結している所を包囲して外に出させなかった。県警機動隊が我々の間に入って我々を統制しようとしたが、数において我々市民が圧倒的に多かった。ヘイト集団50人ぐらいだが、外に出ようとしても俺たちは座り込みで彼らを阻止した。彼らは1時から4時までの許可をもらって路上デモを画策したが身動き取れず。2時半ぐらいに、あいつらは県警機動隊に頼み込んで機動隊擁護でヘイト集団を路上に出そうとしたが、俺たちはあいつらの車の前後に座り込んで車を動けないようにして、出てきたヘイト集団を公園に押し戻して再度公園での再包囲を続けた。4時を過ぎて、あきらめたヘイト集団は解散して駅に向かったが、我々市民は彼らを包囲したまま駅から帰らせることが出来た。市民がヘイト集団に勝った戦いだった。市民の側も、誰か指導者がいるわけでもなく、それこそ自然発生的に彼らを包囲し、進んで座り込みをしていた。多くの国から来て住んでいる外国人との共生が、同じ市民として当然と考えている我々が、差別と分断を図る彼らを川口に入れてはいけないという暗黙の了解が、あのような行動につながったのだと思う。」
安堂のおじさんはそこまで話して、茶碗の酒を口に運んだ。
この件に関して、普段僕が思っていることを安堂のおじさんにぶっつけてみた。
「ヘイト集団が公然と、しかも堂々と街中で差別的なデモをするのは僕も嫌だけれど、市民として無視すれば彼らの居場所もなくなるでしょう。別に反対行動をしなくてもね。」
すると、このマンションの住民のおじさんが口を開いた。
いつもおじさんとだけ言っていて、親父の弟というだけで名前も忘れていたが、先ほど隆俊と呼んでいたので思い出したおじさんだ。
いつも玄関が鍵なして空いているので、表札を見て入った記憶もないぐらいの僕の育て人だ。
「今回、市議会でクルド人を標的とした議会決議が通ったが、この差別的な決議もそれを支持する議員や人がいるという事を考えてほしい。国を持たないクルド人は政治的迫害から日本に逃れ、難民申請しても認めてもらえないうえに不法滞在者として入管に送られ檻の中に入れられている。いつ出られるか分からない劣悪な捕囚環境の中で死者も相次いでいる。在留資格を持たず、入管から仮放免されても就労は禁止され、国民健康保険も入れず移動も制限されて劣悪な状況に置かれている。
出入国の管理というものは日本の安全を守るためのものだが、それは日本に入った人の安全・人権を守ると同時に日本に安全・人権を求めてくる人にも同様に対応し、考えてあげなければならないのだが、今回の入管法の改正、これは改悪と言ってよい代物だが、入管の在り方やシステムを考え直さなければならなかったはずだが、長期収容の問題をただの安易な強制送還という方法に置き換えただけで、より排外性を強めただけの法改悪になっている。
この排外的な法改正に乗って、市がそんな彼らを監視しようというのが通ってしまった。そういう議員が多いから通ってしまったという事が、実は大きな問題なのだ。
市民にはいろいろな考え方があると思うが、市民を代表する議員や行政が差別的な考えで事を行えば、何も考えないで同調する人も出てくるのは明らかだろう。今回のヘイト集団が登場したのも、差別行動に味を占め川口を根城にしたいがための登場なんだよ。」
隆俊おじさんは僕の顔を見ながら話してくれた。
続いて安堂のおじさんが、茶碗の酒を飲みながら話し始めた。
「この話は元々地元選出の**が音頭取りで、右派の国会議員と県会議員、そして市議会議員を取り込んで始めたものだ。
**は、『地方も自主的に国に協力する立場なのだ』と主張するゴリゴリの中央集権右翼だがこの男、俺の前でひどい事言った奴だ。」
僕も名前を聞いて思い出した。かって川口に文化会館が出来て、そのオープニングに安堂のおじさんの知り合いがコンサートを催すことになり、その知り合いの会社に話をしてチケット販売の半分を引き受けた時、おじさんの前に登場した当時の市の平職員だった人間だ。
「文化会館オープンで、市民として協力したいという事でコンサートのチケット引き受けた時、事務局長が『市民が協力してくれるのはありがたく嬉しい。』と喜んでくれたのだが、次の日呼び出しがあり、行ってみると最高責任者の事務局長が事務所の片隅で首をうなだれていて、妙な雰囲気だと思っていると職員が横柄な態度で俺に「これは市の行事で、市民とは関係ありません。」と、タンカを切ったやつだ。俺に、この件から手を引いてくれというのだ。
市民のために作った文化会館で、市民とは関係ないとは良く言えたもんだ。
腹が立ったが後日電話を入れたら「選挙に出るので辞めました。」と言われたよ。
川口の自民党もおかしなところで、鋳物で力があるので自分たちで県会議員も国会議員も立てて出すところなんだ。町会も自民党の支援組織になっていて、市の行政、政治もおかしなものだった。
**も市議会議員から県会議員、そして国会議員という決められた通りのコースをたどった。
大体にして、**が国会議員になったのも本人の技量ではなく、内容も何もなくとも母親の父親が硫黄島玉砕の指揮官、栗林中将だったからに過ぎない。
あの『このイベントは市の行事であり、市民とは関係ない。』という意識は、国会議員になって川口で国政の話はするが、そこに国民はいなかった。付け足しに国民という言葉はあったが、あくまでも国を守るという言葉はあっても国民の命を守るという意識はなかった。
一部右翼の牙城が自民党というだけで、そこから見える日本は極右の国体づくりで、そこでは国民、市民の生活も命も守るという意識はなく、国という形をどう守るかという発言ばかりで、こんな奴に国政を付託している国民を馬鹿にしているだけの人物なんだ。」
話を聞きながら、に対して、安堂のおじさんが愚痴った話も思い出した。
「**に関して、コンサートの時の話もしていたよね。」
「そうだ。結局コンサートに呼ばれ、舞台に上がって入場者を眺めていたら、舞台の真ん前から声がするので見ると、うちのパチンコに来ている客がびっしりいるじゃないか。聞くとの後援会に呼ばれてきたというんだ。つまり市の行事と言っていたが自分の後援会の会員向けのイベントでしかなかった訳だ。
コンサートが終わって帰りがてら、歌手に挨拶しようと楽屋に行こうとしたら俺の前を**とおふくろさんが花束をもって楽屋に向かっていた。腹が立ってそのまま帰ったけれど、政治家、いや政治屋の真の姿を見たようで、しばらく腹の虫がおさまらなかったよ。
だからヘイト集団が来ると聞いた時、しかも政党を名乗って登場することで、日本の政治の姿を見るようで頭に来ているんだ。」
「前回は追い出したのだけれど、今回はどうでした。」
僕は文乃とのんびり話をしたかったので、おじさんの話の顛末を聞いて早めに外に出たかったのだ。
「そうそう、前回はヘイヘイの退で引き揚げたのが悔しかったらしく、ヘイトのボスが警察に乗り込んで『なんで俺たちを守らないのか。政党を蔑視しているのか。』とさんざん文句を言ったらしい。警察の返事を聞いて二週間後、この間の日曜日再度登場したわけだ。
彼らの集合場所も駅から離れた場所で1時集合というので、我々市民連合はそれぞれ12時から駅前で情宣活動をしてから彼らの集合する場所に向かったのだ。
行って驚いたのは、彼らの集合場所の10m前から歩道が通行止めになっていて機動隊がひしめいているのだ。
公道も規制が引かれ、見ると警察がヘイト参加者を集合場所まで案内しているじゃないか。
関係ない市民が通ろうとすると追い出されていた。歩道も通れないので子供が泣き出す始末だ。
俺も含めみんなで抗議するが、機動隊は無関心。聞く耳を持たず、規制ばかりに関心を払うだけ。
『どのような根拠で市民の通る歩道を通行止めにするのか。』
『このような違法な指示を出した責任者を出して、説明してくれ。』
と言ったのだが無視。
それでも続々集まる市民の群れに警察も驚いたようで、より警備体制を引いて彼らを守ろうとしていた。1時には集まったようだがなかなか動かず、2時を大きく過ぎて、機動隊の先導車の後に機動隊員とヘイトの車、その後にヘイト集団が機動隊に守られるように道路に出てきた。道路は人ひとりも車道に入れぬように機動隊員がロープをもって張り付いていた。
俺も飛び込んで中のヘイトの車の前で座り込みしようと隊員間の隙を見て走りこんだが、4回ともすぐに抑え込まれ歩道に放り出されてしまった。
機動隊に守られて、ヘイト集団と党を呼称する車から勝手なことを言っていたが、我々の抗議の声が大きいので、彼らのパクパクしている姿を見て道を通る人は笑っていたわい。
道を左に左にと回りながら駅前を通り元の集合場所まで警察に誘導されて解散したようだが、道路に出て戻るまでに一時間もかからなかった擁護行進だった。
おそらく1時から4時半ぐらいのデモ予定だったろうが、彼らにとって少ない時間でも川口に登場してデモを打ったという「既成の事実」を作りたかったのだろう。その後ヘイト集団は入り口に現れなかったので、裏から機動隊に守られて退散したようだ。
それから駅へ行ってみると駅前に10数台機動隊の機動隊車両が止まっていて、そのほかにも車が見えたので、あんなヘイトたちにどれほどの動員と費用が使われたのかを考えると、背筋が寒くなった。
市民を守るはずの警察が、ヘイトを守る。混乱を避けるという言い訳を設けても、なぜ混乱するのかという原因と道理を考えると警察の役割の曖昧性、それは時には市民に対する暴力にもなりかねないものなのだ。」
安堂のおじさんは、そこでまた酒で喉を潤す。
「ヘイト集団を川口に登場させデモをさせてしまったことは、我々市民の敗北だと考える。そこで、これからどうするのかを隆俊と話している時に文ちゃんたちが来たわけだ。」
安堂のおじさんの激高した声の通り道に、僕たちが通り合わせたのだ。
「隆俊が消極的なので、つい声が荒くなってしまったようだが、その声で文ちゃんたちが寄ってくれたのだからよしとしなければならないか。」
安堂のおじさんはカカカッと笑っている。
「ヘイトが何ゆえに悪いことなのか、差別に対して向き合う事の必要と情宣を進めていかなければならない。そして市議会に対して『反ヘイト条例』のような形で前面に立たせなければならないだろう。条例も生半可な差別の理解では骨抜きの条例になりかねない。
そして、ここでもまた市民を守るべき警察が市民の敵を守るという愚を犯した。
このことを糾弾しなければ、また同じようなことをしでかすだろう。だから、市民の通り道―歩道の封鎖の根拠とそれを判断した人間を、裁判を起こして追求すべきだ。罰すべきだ。」
隆俊おじさんが、頭をかきかき文乃に語りかけた。
「あいつらは政党の看板を掲げてやってきた。ヘイトに関して議会でも問題にすべきだと知り合いの市議会議員に言ったのだが、表現の自由と国政活動に抵触するという事で不問にしているようだ。
そのことを安堂さんに言って俺が怒鳴られている時に武志たちが入ってきたんだ。」
道路まで聞こえた安堂のおじさんの大声の理由が、やっと理解できた。
「何が政党だ。以前からの差別ヘイトを政策に変えただけじゃないか。本質は何ら変わっていないばかりか、ヘイトで裁判を起こされ続けているような輩だ、政党自体を裁判にかけて糾弾すべきだ。
大体にしてヘイト、差別を『表現の自由』と、のたまわっているが、『表現の自由』の意味も理解しないで言い腐っている事も問題にしなければならない。
戦後、自由という言葉が普及し出したが、大方は自分のわがままを通すことを「自由」と思い込んでいるから誤解しやすいのだ。
元々仏教で使われる「自由」とは、「自らを由(根拠)とする」から来ていて、どんなことも自分を理由とする自己責任の思想なのだ。
翻訳語としての「自由」は英語ではFreedom、何物にも制約、制限されないという事であり、Libertyは社会的、政治的に制約されないこと、借金を負っていないことで、liberateは解放するという意味だ。
すなわち「自由」とはFree from すなわち、制約や抑圧から自由になるという意味で、なんでも言ったり書いたりするのが「自由」という事ではないのだ。
なんでも「自由」なら人殺しも「自由」になり、法律なんかいらないことになる。
検閲や発行禁止という制約から自由にと言うことなのであり、人を傷つけたり悲しませることを「自由」と思っている人間は、人間関係の基本的なコミュニュケーション力を失っていると言える。
だからあちこちで裁判を起こされているが、問題は裁判官も「表現の自由」と言われて、さっき言ってた市会議員同様に頭を抱え込むことになる。」
「法律の条文の理解という意味では、日本語と意味を理解しているのが法律家だと理解しているのですが。」と、文乃がおじさんに尋ねる。
すると隆俊おじさんが、文乃に答える様に話し始めた。手にはコップ酒が乗っていた。
「法律家と言っても解釈でまちまちなのだよ。
裁判の結審で読まれる判決文書を見ると、条文の語句から始めて判決文を作る裁判官と、法律の目的から判決文を作る裁判官がある。
特に判決では、すでに出ている判例を踏まえることが多いので「表現の自由」に関する判例から現下の判決を出すのがほとんどで、前例を覆す判決は勇気もいるしそんな裁判官はなかなかいないものだ。
法律に書いてある言葉から出す判例を文理的解釈といい、法の目的から出す判例を条理的解釈というのだが、武志覚えているか。」
いきなり僕に矛先が回ってきたが、僕の頭の中には大学の授業より遊びごとの記憶しかないので何と答えてよいのか皆目分からないでいる。
すると文乃が助け舟を出してくれた。
「研究や実験で困ったとき、参考書や論文から書いてある通りを繰り返すよりも、研究や実験の大きな目的に立ち返って考え直すと、意外と物事がうまくいくものよ。先の例が文理的解釈、おおもとに立ち返るのが条理的解釈でよかったかしら。」
二人のおじさんは、可愛い文乃を気に入っているからか、答えが良いからかニコニコして首を前後に動かしている。僕は文乃の口元を眺めるほかにない。
今度文乃が僕の知らないことを口走ったら、そんな時は僕の口であの口を抑え込まなければならないだろう。
「そうそう、その文理的解釈で、日本国憲法を亡き者にしようとする動きがあるが、今日はその話をしよう。」
安堂のおじさんは一升瓶の酒を自分の茶碗と隆俊おじさんのコップに注ぎこんだ。
一升瓶の酒は未だ半分残っている。あれが無くなるまで話が続くのだろうか。
僕は文乃とのデートの時間が少なくなることのほうが心配なのだ。
文乃と言えばフンフンと、まじに話の続きを期待しているようだ。
僕の二日酔いのかったるさは薄れたようだ。文乃との昼食をどうしようかと思いながら、そばにあった茶碗を安堂のおじさんの前に出すとホイホイといいながら注いでくれた。これは半ば、やけ酒になりそうだ。

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