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タイトル

1日に3回も耳掃除をしている。耳そうじ依存。
毛抜き依存。
ドーパミン。

生乾き臭のするブラウスを乾燥機にかけたら、においがとれた。前はそうではなかったかもしれないのに生乾きのにおいに敏感になってきた。手間が増えるから敏感を減らしたいが、センサーが育ったらもう戻れないのだろう。しかしこれはセンサーの常識的な範囲である。自分が不快な思いをしないと同時に他人に不快な思いをさせないでいられて一石二鳥でお得だ。常識の範囲での繊細さは生きやすくなる。マジョリティにいると生きやすいことがわからないくらい生きやすい。
どこかで見た例え。信号が緑と赤なのは私たちの大多数が色を見分ける目を持っているからだ。もし絶対音感がマジョリティの能力だと、ドは止まれ、ミは注意で、ソは進め、というふうに音階でルールが作られても機能する。絶対音感を持たない私は、その世界では基本的な仕組みも感知できなくて障害者となる。1人で道を歩くのも危険を伴う。ドが鳴ると赤に光るなど補助器具、または誰かの介助が必要になる。
不利益を被らないと、仕組みに疑問を持たない。仕組みを変えるとなると、マジョリティにとっては、利益にならないのにコストはかかるし、長く機能してきたもので愛着もあるし、愛着というか、それ以外考えられないくらい慣れ親しんだものだし、着手する理由がないんだな。山を動かす集団的無意識のせめぎ合い。なるたけ働きたくないでしょうみなさん。
インド人がグランピングに行きたがっている。牛肉は食べられないので、きっとグランピングが何かを知らずに言っている。とにかく何かアクティビティがしたいようだ。日本に住む外国人にはどんな不便があるのか、そういうのは近くにいないとわからないだろう。マイノリティに触れたいというのではなく、ただそうなっていくもの。自分だったり、友達だったり、家族だったりするもの。

即興で対処するのが苦手であるとか、延々考えていつまでも判断ができないとか、環境が変われば困りごとになる私の特性。マイノリティのかけらが誰にでもある。あるなー、あるけど、困ってないからこれ以上踏み込んで考えるのってしんどい。しんどいなー。
自分で自分にレトリックがうまかったら考え進めるのもスイスイ行けるのだろうが。誰かが代わりに、もっとうまい言葉で考えている。それを次々摂取して世界が開けたかのように一時期は見えていた。しかし、指一本でスクロールして上澄みを拾っていくばかりなのは、もしかしたら自ら羽を折られにいく行為であるのかもしれない。ドーパミン出るし、満足するし。
ネット上の声はレトリックがうまかったり、一見数が多く見えたりして(しかし私のフォローが偏っていたり)、正しい考えを見つけられたように感じてしまうが、鵜呑みにするのではなくあくまでn次的なもの。
ドーパミンって有限で、安易に擦り倒すのは勿体無い。生(せい)の体験、成果、失敗、体の中心に貫かれている感覚が鈍麻したら、なんのために生まれたのか、いつの間にかわからなくなる。あまりに安易にドーパミンが得られるから、肉体が勿体なさすぎる。

バキ童チャンネルの初見に向けた1時間22分もある、初心者が気軽に見れる長さではない動画を全部みた。バキ童はバキバキ童貞の略。
また一つ面白いものが増えた。どうやって笑わせてくれているのか。こうやったら面白いとか研究をしたのか。もともと面白いのか。予想外に大声出したり、面白いことを真顔で冷静に話したりするから、温度差でおかしい。仕掛けがある。仕掛けがあって面白い。面白いというのは分析してわかるものだろうか。
お笑い芸人ができる人なんて奇人だ。奇人偏差値75だ。私のしているつまらない仕事など、彼らは一日で逃げ出すだろう。なんでかな。分析では全ての頭脳をカバーできないのなんでかな。わからないもどかしい追いかけたくなる。


藤がきれいだ


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