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「見られる」と「見る」の違いから見えてくること

昨日、Twitterで見つけたこの動画、何度も何度も見ながら、「見られる」と言うことの意味を考えていました。

※残念ながら、Twitter上の上の動画は削除されてしまいました。サムネ画像が残っていたので、それを見ると雰囲気は伝わると思うので、その画像を貼っておきます。

たとえ動画の中であったとしても、こうしてずっと見られているというのは気になるもので、ジェットコースターに乗っていて、どんなにめまぐるしく景色が変わったとしても、「見ている」男の目は何よりも強く感じられて、無視することはできないと感じました。

もし、実際に日常生活の中で、このようにガン見されていたとしたら、心穏やかではないでしょうし、本来の自分のパフォーマンスは発揮できないような気がします。

しかし、このような視線を、ときに誰もいないときにでも感じるという人もいるのではないかと思います。

少し恥ずかしいことをするときに、周囲を見回して誰もいないことを確認するというようなことは誰しも経験あると思います。そして場合によっては、お天道様が見てるから恥ずかしいことはできないということを感じる人はたくさんいますよね。常に神の目を気にすると言う人もいるかも知れません。

この、「見られる」と「見る」というのは、対化の関係になっています。そしてこの他者の視線というものが、人間が知性を発達させるためにとても重要な意味を持っているということも事実です。

赤ちゃんは目を追いかけるという習性があります。お母さんの目を見て、それを追いかけることで筋肉を動かし、そこから呼びかけられる音声に反応し、脳が少しずつ発達していくわけです。

人の主体性というものは、「見る」ことです。しかし「見られる」というのはベクトルが逆ですから、「見られる」という意識がより強くなったとしたら、途端に主体性が失われてしまいます。見ている相手に主導権を明け渡して、相手にどう見られているのかが気になり始めます。

主体性を自分の意見だとしたら、見ている相手に主導権を明け渡すと言うことは、相手の意見を自分の意見より重要なものとして認識するという態度のことになりますね。

もちろん他者の意見というのも大事であり、尊重する必要はありますが、何よりも大事にするべきなのは自分の意見であり、他者の意見は参考にすることはあっても、最終決定権はあくまでも自分であるということを忘れてはいけません。

このあたりの自己と他者のバランスをどのように取るのかというのが、人によって違うのかも知れないと思いました。日本人はどちらかというと、他者の意見を尊重しすぎて、自分を出さないと言う選択をしがちな国民性を持っているのかも知れません。

これは前に書いた「日本人はおかしい!?」と言う記事の中で書いたことにもつながりますね。

しかし、この常に見られているような気がするということって、日本人だけでなく、あらゆる人が持っている感覚だと思うのです。

それは人間が神の目を意識するということとつながっているような気がします。

それは、おそらく一神教が生まれたという事と関係していて、それまでのいろんな意味で緩かった八百万の神の時代から、厳格な一者が現われ、あらゆる偶像崇拝を禁じ、戒律を守ることを要求する一者の時代へと移行しました。そうして人間は常に神に見られるという観念を植え付けられたと言えるかもしれません。

日本でもお天道様が見ているという発想は昔からありますから、やはり同じような回路はあると思われます。

これらは意識の進化の発達プロセスの見地から考えるならば、心のべースになるものが完成し、さらに意識を発達させようとするときに、より高次な意識が現われて、意識を交差させていくという回路と同じような事だと思われます。

個人としての人間は、だんだんと意識が発達するにつれ、自分がしたことを自分で見てダメ出ししたり、改善しようとしたりします。つねにより上位の意識が生まれて下位の自分の行動を律するようになっていくというのと似ています。

そういう意味では、人類の意識進化の歴史において、一者の登場は必然的で、出てくるべくして出てきた概念であるということが言えると思います。

その結果、人類は言葉を発達させ、法律を作りましたし、科学を発達させ、物質的に豊かになりました。しかしそれと同時に奔放な自由意識を失っていったとも言えるわけです。

常に神に監視されるというシステムの元で、人類の文明は発達してきたという事になりますね。今でも知らず知らずのうちにみなその目を意識して、恐れながら生きているという事になるのかも知れません。

そして今では物質的繁栄はかなりの所まで来て、今では行き詰まりを感じる様になってきているわけで、今こそ、何らかのブレイクスルーが必要なときだと思われます。

だから何が言いたかったのかというと、この「見る」と「見られる」と言うことの中に潜んでいる意識的な葛藤の起源を読み解きながら、「見られる」自分から「見る」自分を取り戻しましょうということが言いたかったのです。

ようやくここに辿り着いて、ほっとしています。とても深い話なので、言葉足らずではありますが、これはとても大事なことだと思っております。










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