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私は誰か?丁寧なマハリシの問答が本当に素晴らしい。初めて読んだのは15年前、めるくまーる1982年版(写真は野草社2019年新版)。自己と訳される文体も、故人となられた山尾三省氏とその歴史性を推重されてのこと。でも何故、マハ(偉大な)リシ(聖賢)ではなくマハルシなのかが違和感…

P20. これではない、これではない…と総てを否定し去った後に、ただひとつ残る自覚。これこそが私そのものとマハリシ。而してその自覚の本性は「存在ー意識ー至福」と言う。在りてある個の原初、穢れのない属性以前、無執着で些細な動機にも縛られない幸福か。表現を重ねれば重ねるほど遠ざかる。

冒頭、マハリシは、我々が持つ「自己への至上の愛」の源は幸福であると言う。また「心のない深い眠りの中で体験される(真の)幸福」を得るには真我を尋ねよと。心の深奥が幸福そのものとはありがたい光明だが、我々にこの自覚は薄い。心のない深い眠りとは、対象物が滅し、心が静寂にあるを言うのか…

P19. 私は誰でしょうか?所謂、仏教で説く五蘊に私は無いとマハリシは言う。物事を考える心もまた然り。捕らえ所がないのは「対象物の印象のみが刻み込まれた無知、そこに対象物も働きかけもない無知も私ではない」の文言。これは事物・現象に対する感覚と動機を言うのか。真我の他は総て無知と…

P22. 総ての認識作用と、総ての行動の源である心が静かになったときに、世界は消えてゆくだろう。―とマハリシ。しかし世界を消したい衝動はトラップだ。これは認識と動機の起源たる心を深める道標。その心も私ではないと言う。ただ「私は誰か」と問い質し、一旦、認識と動機の沼を這い出たい…

P21. 真我の実現はいつ得られるか?―見られているものである世界が拭い去られたとき、見るものである真我の実現がやってくるだろう―とマハリシ。純粋なただ観る者の「観る」もないことか。観るは世界の始まり。この自覚は「観自在」に通じるかどうか…般若心経を想像させる。「観音」ではなく。

P22. マハリシは、真我に内在する心の驚くべき力、つまり世界の生滅は想念が担うと語る。ただ、自ら作り出す粗大な生滅に心が依拠するあいだ真我は隠される。この世界と真我の相容れなさは問題だがヒントだろう。相容れないのは別物ゆえに是非もなし、心は私ではないとマハリシも言うではないか。

P21. 世界を認識しながら真我は実現するか?―世界が実在するという信念が消えない限り(真我は)得られないだろう―とマハリシ。俄かにこの世界が総て妄念とは思い難いが如何に看破するか。認識することと、そうであることの違いか。認識と言う動機に囚われれば二元の始まり無条件な至福はない。

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