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他者という風

個有のテーマは変遷するんだろうな。

思えば、僕の根っこにあったテーマは、本当は「お母さん」であり、「お父さん」だったんだろうと思う。

でも、踊り始めたときから、「神々の住む島からのメッセージ」をテーマとしてやってきたのは、父と母に対する反発もあっただろうし、認めてもらいたいという気持ちもあったのだろうと思う。

神という権威の笠を着て、これだけ立派なことをしているのだから、認められるべきという思いがあったのかも知れない。多くの人が通る道だよね。

大野一雄さんは「お母さん」を全面に出して踊っておられた感じがしていて、それはすべての人のハートに触れるテーマだからこそ、舞踏の世界では飛び抜けて支持を得られたのではないだろうか?

社会に対しての怒りをテーマに踊っている人の踊りを見たときに、それはエネルギーを吐き出すという意味では、健康のために必要かも知れないけれど、そもそものエネルギーの出し所を間違えているという感じがして、好きにはなれなかった。場を汚すような踊りは好きになれない。

「怒り」というエネルギーの裏側には「意欲」がある。本当はこうありたいという「意欲」が、邪魔をされていると思っているから「怒り」となるのであって、建設的にエネルギーを振り分けるなら、必ず、じゃあこうしようというような「新しい選択」があり、それは必ず創造的選択と言える。

「怒り」というものは内省して、「意欲」にしてから表現したいと言うのが、僕の好みだから、「怒り」をこれ見よがしに発散するタイプのものは、踊りにしろ、音楽にしろ、あまり好きにはなれない。

バリ島の「バリス」という踊りは本当にエネルギーを注いだ踊りだったけれど、もともとバリスとは「列」と言う意味で、戦士の隊列を表わす踊りだ。いつのころからか戦いの踊りということに自分の中では矛盾を感じていて、勇気の踊りと言い換えて踊っていた頃もあった。

たしかに勇気がなければ、自立はできないし、言葉を発することもできないし、真実を語ることもできない。嘘に丸め込まれないで生きるためにはしっかり自立する力が必要であり、そのためにバリスという踊りを踊ることの意味を見いだしていた。だからバリスを踊ることは怒りを意欲に変えることに通じると思ったりもしてたんだった。

身体、特に筋膜にはたくさんの感情が残っていて、そこにスイッチを入れるとその時の記憶が蘇り、感情も出てきたりする。この原理を応用したのが、アプレジャーのSER(体性感情解放)だ。

だから、身体を動かしたり、ひねったり、伸ばしたり、特定の姿勢を取ることで、思いがけない感情が湧き出してきて、それを踊りとして昇華するという事もできるのだけれど、ある程度踊り込んでくるとだいたいそのような刺激で出てくる感情というのは頭打ちになる感じがする。

以前は動きの中で身体を少しひねると必ず涙が溢れてきたけれど、今ではもうそういう涙は出てこない。これはなにかひとつハードルを越えたというか、別の領域に入ったというか、なんかそんな感じがするんだよね。まぁ、もっと深いところにはあるのかも知れないけれど。

だからなのか、この前の最上さんの「個有のテーマ」を見つけないと踊りにはならないというツイートの意味がわかるような気がしたのだ。もう、その都度のハプニングだけで、勢いだけで踊り続けることはできない。

だからこそ、いよいよ本番領域ということなのかも知れないなと思いながら、最近過ごしているところ。

「お母さん」というテーマは僕の中で昇華されたのだろうか? 「お父さん」というテーマは解決したのだろうか?
少なくとも「神々の住む島からのメッセージ」というテーマはもう卒業したという感じがしている。

昨日のnote記事で書いたことで、ヌーソロジー的な世界観、ヘキサチューブル、素粒子、「死の領域」に足を踏み入れるようなことを踊りでやってみたいということはたしかにあるのだけれど、それをテーマというのは何か違うような気もするんだよね。

それは踊りで入っていく「場」のことであって、個有のテーマとは違うような気がする。

ヌーソロジーを知るようになって、僕の中で大きく納得したのは、すべての出来事は起こるべくして起こってきたと言うことで、どのような理不尽な現実も受け入れられるようになったということかも知れない。

一神教も、科学も、封建制から民主主義への道筋も、資本主義経済が爆発的に発達して、地球環境が悲鳴を上げるようになることも、科学主義、物質主義がすべてをリードして、やがて人間の霊としての尊厳も奪われていくということも、すべては歴史の必然であり、起こるべくして起こってきたということだ。

そのプロセスの中で、圧力が高まるほどに、人間は宇宙の秘密について解明し、その領域を開き、進化を続けていくというようなストーリーがすんなりと入ってきて、なるほどと納得できた。それは宇宙が創造されるメカニズムでもあり、そこに能動的に関与することが、人間からヒトへと進化していくという事だという感じ。

なので、昔のように地球の危機みたいなことに感情が反応しなくなったというのがあるんだよね。そして、政治であるとか、人間関係であるとか、昔のようには期待もしないし、失望もしないし、なるようにしかならないと思っているところがあって、そういうのはテーマという感じはしない。

心が動くのは、音楽とか、踊りとか、霊的な衝動を伴うような気づき、目覚め、そこに触れて感動するようなことだなと思う。

そういう意味ではやはり踊ること自体が心躍ることだと思うんだけれど、ここ数日何度もひとりで踊ってみて、どこかマンネリ化してきたという感じもしてたんだよね。そんなときに、最上さんのツイートを見て、そういうことかと思ったんだけど、それがこれ↓

「身体やっていると自分自身の内部の構造的な迷宮につかまる。ここから先は他者という風が必要。他者は常に遠くからやってきて、わたしの身体を吹き抜けていく。マレビトだね。」

う~む、なるほど。という感じ。そういう意味で、今原初舞踏の稽古場での経験がとても貴重なんだよね。明日はまたその稽古日なので、そこで何に出会うことになるのか、何を感じることになるのか、楽しみだ。



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