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最上さんの踊りを観ての感想を書いてみる

あらためて、今日の最上さんの踊りの感想を書いてみたい。言葉にすることが難しいことをあえて言葉にするという挑戦でもある。

割と早めに会場に着いたので、開場とともに中に入り、一番後ろの席に座りながら、徐々に人が増えていくのを見ていたのだけれど、踊りを観るために集まった人たちが、舞台を囲むように座っていて、皆、観る気満々という雰囲気ができていって、その皆の観る態度によって出来上がった空気自体が、すでに何か特別な場をしつらえていたような気がする。

そこにすっと現れて踊り始めた最上さんは、粛々と淡々と儀式を始める巫女のように、その場で膨らみ始め、やがて僕のいる場所も含めて、会場のある建物全体をドームで包み込んでいったように感じた。

その頃には宙に浮かび上がった女神が全体を見下ろしながら、その場のど真ん中に着地を試みようとしているという感じだった。

この時、最上さんの顔が、昔、長く縁のあったある舞踏家の顔に見えて驚いた。その舞踏家は20年前に亡くなった人なのだけれど、22歳の時に出会って以来、20年間活動を共にした人だったので、その声や雰囲気というものは、今でもどこからともなく聞こえて来たり、気配を感じたりすることもある存在だからこそ、ここでまたその面影を見たことにも意味があるのだろうと思う。

僕にとってはその舞踏家だったけれど、他に「昨年夏に亡くなった母を見たようで涙が出た」と感想を述べられた方がおられたように、一人一舞踏であるのと同時に、一観客一舞踏でもあるのだなとあらためて思ったのだった。

同じ踊りを観ていても、それぞれの個的な持続空間の中で、皆それぞれに全く別の踊りを観ていて、それがこの場を共にしたからこそ得られた個的な経験となり、それぞれの人生の中で意味のあることとして記録されていくのだろうと思う。

そして、舞台の真ん中に降り立った最上さんはやはり静かに粛々と儀式を進めていると感じられ、その姿は落ち着いていて、期が熟すのを待つ余裕があり、そこに洗練された美しい所作を感じた。何かを起こそうとするわけでもなく、静かに待つ姿から、成熟とはこういうことであると示しているようにも感じた。

興味深かったのは、後ろに垂らした髪の束を手にとったところ。後ろ髪というのは、過去であり、背後であり、それらの記憶を編み込んだものであり、だからこそ、そこに触れることはレコードに針を落とすように、背後に隠された何事かを浮かび上がらせる瞬間であったように見えた。

愛おしい記憶もあれば、辛い記憶もあるはずだけれど、そのどれもが、その人にとっての軌跡であり、存在の根っこと繋がっているからこそ、髪に触れることはその人の全人生、全存在を受け入れ確定させるような響きがあって、そこに立つことの意味の重要さをあらためて見せられたようで、身震いする思いがあった。

天からの何かを受け取っているような所作があって、その時僕の耳に聞こえて来た音は「ウケヒ」という音だった。何か大事なものを受け取ろうとしているのだというふうに見えて、だからこそ全ての背後をきれいに丁寧に束ねた、あの髪だったのかも知れないと思って見ていた。

全てが整ってこそ、準備できてこそ、ウケヒは生まれるということかも知れない。そのためにも日常の中にある所作を当たり前の中に埋没させることなく、心を込めてしてみることは大事なことなのかも知れないと思う。

踊りも最後の方に来た時に、最上さんの手が下に降りて動き始めたと思った瞬間、喉が痒くなって、咳き込みの衝動がきて、必死に水を飲んでそれを抑えこんだのだけれど、これは1月7日の新年会での最上さんの踊りの時に起こったことと全く同じだった。

あの時は、熱く激しいエネルギーが感じられ、その中で起こったことだったけれど、今日は静かな流れの中であったにもかかわらず、最後にはやはり喉が反応したということが、僕個人の経験としてはやはり意味を感じるわけで、喉が意味するところを再び見つめないといけないなと思ったのだった。

踊りの後のシェアで、最上さんが言われたのは、今日は自分的にはいまいちだったということで、それには驚いたのだけれど、たしかに熱さとか、激しさとか、特別なエクスタシーが起こるような展開ではなかったということが、踊り手としてはいまいち起こらなかったという表現となったのだと思う。

しかし、観ていた多くの人の反応はすごく良かったというもので、その評価のギャップということも面白い。えてして、手応えのある踊りだから良かったと、踊り手は思いがちだけれど、実際には踊り手の感覚とは別のところで踊りは起こっていて、すでに場がことをなしているというようなこともあるのかも知れないと思ったのだ。

もちろんそれを可能にしたのは、最上さんの経験と丁寧に踊りに向き合い、潔く待つという姿勢があったからだと思うし、それこそが踊り手が稽古することで目指すべきものなのだろう。

そして、踊り手の熱狂やエクスタシーというものは、本当は踊りの根幹を占めるものではないのかも知れないということも、記憶に留めておこうと思う。

スタッフが整える場、観客が創り出す場、会場の持つエネルギー、その日の天気、踊り手の体調などなど、踊りを決定する要因は実はたくさんあって、そのどれもが大事な要素なのかも知れないということに気がつけたということも、今回の大きな収穫だったように思う。

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