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「正面が正面を観る視線」から触発されて考えたこと

本当にいろんなことを含んでいて、思わず唸ってしまった小野満麿さんの動画「正面が正面を観る視線」。今の自分のテーマにドンピシャというのもあるかも知れない。


最近しょっちゅう考えている言葉が並んでいて、それらを自分の中で並べ直してみたり、再構成してみることで、今自分の中で進行中のプロセスが何なのか、あらためて問い直してみたいと思った。

なぜ翁だったのか、その先に何があるのか、なぜ大地に横たわるところから始めるのか、、、僕にとっては、たしかに翁と向き合ってしまったところから始まったとも言えるので、いつか決着つけないといけないことなんだろうとは思っていたんだけど、まぁ、じわじわときてる感じではあるよね。

先日の最上さんの稽古場で、5人で囲んで黙想していたときに、真ん中にできてきた玉のようなものと、部屋全体がプラズマのようなエネルギーの玉で包まれているように感じたというのも、あの翁を初めて見たときの、1983年夏の和光大学のある研究室の、あのときの空間の感じととても似ていたのではないかということを、今になって思い出してる感じなんだよね。

そういえば、飯田監督のドーム映像の中で、客席が大写しになって、いきなり自分の位置を反対側から見せるような場面があったり、この前の「妣が国」においても舞台上に客を座らせ、劇場の常設座席に相対して座らせるような演出とか、いずれの作品においても、正面って何なのかということ考えるきっかけを生み出そうとする試みなんだろうと思うんだよね。実はあなたが主役なんですよと言うことであり、翁もそれを言っていたということかも知れない。

しかし、こういう考察も、根拠となっているものは、僕の経験と主観でしかないので、どんなに語っても人には届かないし、共通理解にはならないわけだけど、自分にとってはこういうだめ出し的な考察は大きな意味があると言うことを思っている。

そう、昨日昔バリのお祭りで踊ったバリスを見たのだけれど、ひさしぶりに見て思ったのは、あの踊りに足りないものがあったとしたら、ただ一つ、「われここにあり」という姿勢だったのかもしれないなと思ったのだった。技術や体力の問題だけでは決してない。


「わたしを見て」「わたしに価値があると認めて」「証明したい」というような要素がすこしでもあると、それはそのような踊りになると言うことなのだろう。それでも、なかなかがんばったとは思うけどね。(笑)

神への奉納として踊るとしても、無意識のうちに神に認められることを目指して踊るものは、神の正体も自分の正体もまだ見抜くところに至っていないということであって、そのことが踊ることによって明確に示されるということもあるのかも知れない。自ら神たり得る者として、構造を理解したならば、神との同格性をもって、まさに神が神を見る日になるかも知れない。

あの翁はたしかに「われここにあり」と明確な意図とともにそこにいたということであって、だからこそそれに反応した自分があったのだと言えるかも知れない。これって、もしかしたらかなり大事なことなのかも知れないなと思う。

だからこそ、総括としてバリスを見るということが必要だったのだということを今は思うのだよね。

あらためて踊りとはかくも残酷なものなりということではある。まさに踊りにチャレンジするということは、試金石に自らをこすりつけるような振る舞いなのだからね。

でもそれをしない限り、「われここにあり」の「われ」には到達できないわけだ。言葉に関しても恐れずにどんどん語っていくしかないんだろうと思う。間違っていようが、認識が違っていようが、発することで初めて間違いにも気づきうるのであるからね。だから、こうして思いっきり書くということも、今の自分にとっての大事なプロセスだなと思うのだ。

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