見出し画像

現実逃避の先へ──「日常系」から「なろう系」への導線【国士舘アニ研ブログ】

カバー画像:『ぼっち・ざ・ろっく!』公式Xより


こんにちは。鯖主です。
先日、新入生のひとりが「異世界について」という記事を書いてくれました。私は、いわゆる「なろう系」(≒異世界転生もの)の作品にほとんど触れてこなかったのですが、それでもこの記事の内容と自分のアニメ作品に対する認識が被る部分はいくつもありました。
そこで本稿では、この記事で書かれていた主張に日常系の視点を加える試みをしてみようと思います。(元記事を読んでなくても本記事を読むことはできますが、元記事も読んでいただけると嬉しいです。)
手持ちのネタが無さすぎるので、最近は他の人の記事に話を加える記事ばかり書いてます……。

さて、この記事の中では
「面白い作品は読み手が共感・感情移入できる作品→異世界転生ものが人気なのは、読み手が共感・感情移入したいと思える世界が描かれている作品(例えば人生のどこからでもやり直せる世界)が多いからからである」
「つらく苦しい生活をしている現代人にとって異世界転生アニメは発散の場であり、異世界は休息の地である」
という主張が展開されていました。
ここに日常系の視点を加えていきます。

まず、「読み手が共感・感情移入したいと思える世界」に関しては、日常系とは真逆の読み方であると考えます。
時に日常系は「外から観るものである」という認識を持たれており、それは「日常の価値は日常の中に生きている時に気が付くことはなく、日常から離れた時にその日常の価値に気が付くことができる。すなわち、日常を相対化することで日常に価値を見いだせる。」というような認識です。
そのため日常系は、異世界転生ものの「読み手が共感・感情移入したいと思える世界」とは真逆の読み方をするジャンルであると考えます。

では、「つらく苦しい生活をしている現代人にとって異世界転生アニメは発散の場であり、異世界は休息の地である」という主張の方はどうでしょうか。
「発散」に関しては先述したように日常系とは真逆の読み方になりますが、「休息の地」という部分には日常系が持つ楽園性と近しい部分があると思います。
「日常系が持つ楽園性」というのは、(程度は作品によりますが)不条理が極力省かれたご都合主義にも感じられる舞台(世界)のことです。日常系作品のほとんどでは、誰かが突然に病気や事故で亡くなることもなければ、キャラクターが大災害に巻き込まれることもありません。他にも「まんがタイムきらら」原作のアニメでは、男性キャラクターが登場しないことが多々ありますが、それもこういった楽園性によるものでしょう。
そして、異世界転生もの、その中でも特に「なろう系」と呼ばれるような作品には、日常系が持つ楽園性に近いものがあると考えます。

ここで気になるのが「楽園」の場所、もとい作品の舞台。
日常系は現実の中のごくごく小さなコミュニティ。社会こそ描かれないものの、まだ現実の中にあります。それは多くの場合、学生同士のコミュニティであり、いつかは卒業して社会に出なければならないという危うさも孕んでいます。ほとんどの日常系作品における「いま・ここ」は、通過点でもあるのです。
対して、異世界転生ものは異世界。社会を捨て、現実すらも捨てています。そしてそれは、通過点ではなく終着点とされる場合がほとんどであると思います。(例えば「現実に戻れなくてもいいや」「ここ(異世界)で一生過ごそう」と言う主人公。)それどころか、誰もが避けられない不条理である死すらも解消してしまう作品すらあります。それほどに異世界転生ものが持つ楽園性は強いのです。逆に言えば、この強い楽園性は異世界という舞台によるものであるとも言えるでしょう。
ここに現代人の現実に対する認識の変化を感じてしまいますね……。

このように、楽園性が強い傾向にある異世界転生ものと比べると、日常系の楽園性は脆いものです。
特に最近の日常系作品では、この脆さが表れていて、例えば『ぼっち・ざ・ろっく!』のぼっちちゃんは高校卒業後(あるいは中退後)の暗い未来図を想像してますし(”実写”人生ゲーム)、他にもギターの購入に自身の動画の広告収入を使う、というような現実味のある、すなわち楽園性の少ない描写がいくつもあります。(他には『がっこうぐらし』や『まちカドまぞく』などが、楽園性が弱い日常系作品として挙げられる。)
楽園性が弱い、と言うとなんだか良くないことのように聞こえますが、これは言い換えれば「日常系作品が少しずつ現実と向き合い始めた」ということでもあります。
楽園性の強さ故に現実から離れた異世界転生ものと、楽園性の脆さ故に現実と向き合い始めた日常系。こうしてみると、異世界転生ものと日常系では、それぞれ逆の方向を向いているように感じます。

さて、ここまでの話をまとめると
・異世界転生ものは共感や感情移入による「キャラクターの内側からの読み方」が基本であり、それは日常系の「キャラクターの外側からの視点」とは対称的な読み方である。
・また、異世界転生ものは楽園性が強い傾向にあり、異世界転生もの程では無いものの日常系も楽園性を持つ。しかし、最近の日常系作品はその楽園性の一部を手放しつつある。
という感じになるでしょうか。

ここでひとつの仮説を立ててみます。
それは「日常系よりも強い楽園性を求める人たち、あるいは現実を向き始めた日常系を観れなくなった人たちの需要の結果が異世界転生ものである。」という仮説です。
仮にそうであるなら、異世界転生ものの行く末は現実からの逃げ切りなのかもしれません。「楽園」に居続けるというのもひとつの答えでしょう。
あるいは、「楽園」の外へと飛び出し、異世界を通過点として現実に帰ってくるのか……。

私個人としては、現実に帰ってくる物語が描かれるような世界であって欲しいと願ってやみません。

ということで、異世界転生ものに日常系の視点を加えることで日常系→なろう系について考えてみる試みでした。


《今回の話と繋がりがある過去記事》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?