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医師法違反。

『ロバート・ツルッパゲとの対話』は、毎日Facebookに書いていたくだらない文章を読んでくれた編集者から、「本にしませんか」と言われたのが出発点だ。

俺は内容がないような文章を、自分で口述筆記をしているくらいの速度で書くことができる。できるという言い方は不遜で、無駄話を書き留めている程度のことでしかない。だから書くこと自体を苦にしたことは一度もなく、むしろこれ以上一日に投稿したら迷惑なんじゃないかと、書いたモノをSNSにアップせず、ゴミ箱に捨てていた。

なぜ捨てるんですか、と編集者から聞かれた。だってその時に思いついたことを後で使うなんていう貧乏くさいことはできない。文章や思いつきなんていうのは、感じた瞬間の鮮度が命なわけで。書いたモノの半分以上は毎日捨てているよ、と言ったら、「それは勿体ないから本にしましょう」と言われたのだ。

数年前にそんなことがあって、「自分が書いた本が出るのか」と感慨にふけっている間に時間だけが経った。何事もふけるとよくない。

「勢いって、最初だけ出るよね」というハンガリーのことわざ通り、瞬間的に七割くらいまで書けたところで安心した。何事も安心するとよくないのだ。しばらくすると、書いたモノの鮮度がなくなった気がして、読み返すのもイヤになった。編集の吉満さんにはとても迷惑をかけた。

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最近、田中泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』という本を読んで、目から大きめのピラルクが落ちた。書き慣れない人が何かの文章を頼まれるとムダに難しい言葉を使おうとしたり、偉人の著作から引用したりして、最終的にクソどうでもいいモノになる。自分が書いていたのは、素人が、よくある「本」のような体裁をなぞった、どうしようもない代物だったと気づいて全部を書き直した。それがつい数ヶ月前のこと。

完全に気持ちがラクになって、まっとうなのはロバートで、著者の俺は「うすらバカである」という立ち位置を決めた。もし、ラインマーカーでダジャレやくだらないことを言っている部分にアンダーラインを引いたら、全ページが蛍光色になるだろう。格好をつけるという格好悪さは劣等感から生まれる。そこから自由になることがこの本の主眼でもあるから、まあまあ読書が好きな小学四年生ならちゃんと読める程度の文章にしている。

noteをはじめとしたSNSでも気づくことがあるけど、伝えたいことのコアは何もなくて、文章の模倣やそれを作り出すストラテジーに酔っているモノを見かける。俺はそれを「お医者さんごっこ」と呼んでいるんだけど、お医者さんごっこをして微笑ましく許されるのは小学校に入るくらいまでだ。

そこから先、手術をする人は医学を学ぶ道を選ぶ。そうでない人がやっているお医者さんごっこは大人げないどころか、医師法違反にさえなるのだ。

昔、定年退職後に自費出版の自伝を書くことが流行った時期がある。本人は意気揚々と書き始めるのだが、幼少時の思い出話が大半を占めていて、その先は結婚、出産、仕事、退職というスッカスカの数ページで終わってしまい、「自分の人生のイベントって、たったこれだけだったのか」と気づいて愕然とする。そういう例が多かったと聞く。

俺は自分がした体験や、まだ誰にも言っていない経験や、数十ヶ国の旅の思い出など、今回は書いていないことがまだある。だけどそれを「お医者さんごっこ」じゃないように書くためには今のところ、素材が少なすぎる。

趣味じゃなく、それでお金をもらうんだから、医師法違反だけは避けたい。もっと言えば、医師免許を持った医者であろうとも、「私はもう三回も手術をしているので安心してください」なんていう新米に手術なんかされたくないだろう。だから数十ヶ国を訪れたくらいで世界がすべてわかったような浅はかなことをいうのはまだまだ早いのだ。

ロバート・ツルッパゲとの対話』一月末発売・予約受付中。






多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。