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言葉のセンス。

だいたいの日本人は日本語を話すんだけど、その能力は千差万別。

「ハンバーガーをください」「500円です」「ポテトはいかがですか」という定型のやりとりだけを憶えれば仕事ができるという、多民族国家のアメリカが効率のために開発したのが「マニュアル」という考え方。

英語が達者でないメキシコ人でもマクドナルドで働けるのはそのおかげなんだけど、それは英語が話せるようになったことと同義じゃない。マクドナルドの店内で使われるボキャブラリーを獲得しただけ。

SNSを見ていると、言葉の使い方でどんな仕事をしている人かがおよそ判断がつく。日常的に文章を書く仕事をしている人はすぐにわかるし、その反対もわかる。

日常生活で使う言葉の種類は実はとても少なく、あまり難しい文法や単語は出てこない。必要ないからだ。難しいことを間違いなく精密に語る必要がある人だけが言語を正確に操る状況にある。他の人が使わない言い回しを考える作詞家や、小説家、詩人などがわかりやすい。

弁護士や医師、政治家、評論家なども、正しくデリケートな言葉を選択しないと大変な事態になる。最近の政治家に言語能力は必要なくなったみたいだけど。

だから使う必要がない人は無理に使わなくていい。たしなみとしてそれを使うのが教養だという勘違いがある。ワインの味を「雨上がりの草原のような」なんてド素人が言うのは聞いていて恥ずかしい。それは「晴れた草原の香り」との微妙な違いが判別できるワインの評論家だけが言えばいい。

そして自分に切実に関わってくるのが写真につけられる言葉。

俺は撮るときにできるだけ言葉を封印している。頭の中にある文章や単語や比喩で考えないように撮っている。言葉で考えた瞬間に言葉の型枠に押し込められてしまうから。公民館の写真愛好会写真展みたいなものでは、桜を撮った写真に「春の訪れ」「はかなげ」なんていう題名がついていることがあるけど、もうそれはありきたりの「叙情的な」言葉をトレースしただけのものになる。

中でも万能なのが「凜として」という言葉。女性でも一輪の花にでも、何にでも使う。まるでクレイジーソルトだ。何にでも使うんだからそれはパーソナルな感想でも意見でも表現でもない。こういう時はこう言うらしいよ、という雑な感覚だ。

写真や絵を見て何を感じるかは見る人が決める。文学的な素養がある人ほど言葉の限界を知っているからそういうことを言わない。そのかわり、撮ったあとの説明としては医師か法律家のように完全な言葉で意図を説明できなければいけない。そこで「言葉じゃ言えないんですよね」というのはただのサボり。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。