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世界の広さ。

以前、友だちの家で映画を観る集まりがあった。そこで誰かのお薦めの一本を観て、感想を話した。「あの映画に似ている」「あのヒロインが出ていた」という話題の中で、ひとりだけずっと黙っている人がいた。

まったく映画を観ない人が混じっていたのだ。ただ連れられてきただけで趣旨がわかっていなかったようなので、つまらなかっただろうなと、残った我々は反省して次の時はその人を呼ばなかった。

この時、ちょっとしたことに気づく。

何でも広く浅く知っている必要もないし、博識でもオタクであることも求めないんだけど、何かをまったく知らないと「呼んでもらえる機会」が減るんだなとわかった。

さっき、ある映像作品の評価を見ていたら、とても専門的な批評をしている人や、詩的な感想を書く人たちの中に「それはよくないと思う」という書き込みを見つけた。あきらかに言いがかりで、本筋とは何も関係ない指摘だった。ゴミの日を守らないというならわかるけど、ゴミを出す時にそのトレーナーを着るのはいかがなものか、くらいアクロバティックな悪口だった。

なぜ、それを言うことが「自分の手柄だ」と感じられるんだろうか。皆が褒めているんだから空気を読め、と言っているわけじゃない。表面だけ無自覚に褒めている人の気持ち悪さもわかる。

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さっきの例で言えば、その人はソーシャルメディアで誰かと知り合ったり、仲良くなったりする可能性を全否定している。誰もそんな人と友だちになりたいとは思わないからだ。悪口にも芸はあるから、辛辣さをスパイシーな料理のように巧く使う人もいる。でもその奥底に愛情があるかはすぐにわかる。他人を否定することで自分を肯定しているだけじゃないかというのもわかる。

だからといって「何でもハッピー感動バカ」がいいのではなく、自分の基準をちゃんと持っている人がする正しいジャッジをみんな見ている。そうじゃないと世界は狭まるばかりだ。

誰かがやったことを貶すのは簡単。それは自分が作っていないから。そしていくら何を言おうとも、文句を言う人は「競技会やパーティに呼ばれていない」人としか取り扱ってもらえない。たとえば同業者の仕事にケチをつけようとしても、それは「あなたには依頼されなかったんですね」という印象しか残らない。

貶すことでストレスが解消できる人がいるらしく、その感情は理解できないんだけど、俺は誰かを貶してばかりの人を自分の仲間にしたいと思ったことは一度もないよなと思いながら、おはようございます。

ロバート・ツルッパゲとの対話


多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。