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一次情報でありさえすれば価値がある。

よく、芸能人などにSNSで絡んでくる人を観察していると、ある共通点が見えてくる。

「独自の情報を持っていない」

どういう意味かというと、「すべてが又聞きの二次情報」だということ。情報というのは誰かに伝わった瞬間から恣意的にエディットされていく。そこに意図が足されていくのだ。

たとえばある人が、「私は吉野家の牛丼はあまり食べませんね」と言ったとする。それはたまたま、「牛丼は食べますか」と聞かれて答えただけかもしれない。でもそれを又聞きした人は、「あいつは金持ちを鼻にかけているから、牛丼なんか食えるか、って言ってたよ」という悪意が足される。

自分が「牛丼を頻繁に食べている」という事実を馬鹿にされたと思うのだろう。これがルサンチマンだ。相手にその意図がないのに被害妄想を勝手に作り出してまで、そう言いたがる。

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『ロバート・ツルッパゲとの対話』では、もしソクラテスが対話の手段としてSNSを使っていたら何かが変化しただろうかと考えて書いた。結論は本を読んでいただくとして、とにかく、道具とか手段は使う人々の教養にかかっている。田中泰延さんは「手段が目的になるのが、趣味」と定義していたけど、まさにSNSは、議論の場ではなくて「SNSing」をしているだけだ。

一次情報や体験を豊富に持っている人は面白い。かつ、モテる。誰もがその人の話を聞きたいからだ。テレビやネットの情報をいくら知っていても、その人の話を聞きたいとは思わない。

逆に、「どんなことでも一次情報でありさえすれば価値がある」とも言える。ごく普通のオッサンの日常が事細かに面白く書いてあれば、それを読みたい人は一定数いるだろう。ファンがつくかもしれない。でも、ネットでかき集めた情報だけで、「現代の中年男性のあり方に憂慮する」なんて高説をぶっても、その人が著名な社会評論家でもない限り誰も読まない。ファンもつかない。それだけのことだ。

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