見出し画像

未来を信じること。

先日「ロバート・ツルッパゲ2の前書き(仮)」を載せたところ、ある人から「未来を育てている」というリプライをもらった。自分ではまったく思っていなかったけど、俺がやりたいのは多分そういうことなんだろうな、と初めて理解できた。

未来を育てるなんて大層なことはできないし、俺には経済力も影響力もないんだけど、だからこそ「じゃあ、何のチカラも持っていない人が身の回りでできることって何なのよ」と考えることができる。雑に言ってしまうと「性善説」。未来を信じること。

俺は写真を撮っているから若い人からアドバイスを求められることがあって、丸腰の若者に自分では使わなくなったカメラやレンズをあげたりしている。機材は俺が放置しているよりも、誰かが使ってくれたほうが意味があるからだ。そしてここからが大事なんだけど、その人が写真を撮ることをあきらめちゃうこともかなりの頻度で起きる。でも、やりたいと思っていたことが変わることなんて当たり前だから「せっかくカメラをあげたのに」などとは思わない。

一番大事なのは時間だから、その人がカメラさえあれば撮れるのになあと感じているマイナスを瞬間的に解決できればいい。アルバイトしてカメラを買うお金を貯めている時間なんて勿体ないんだから。早く体験して、早く「やりたいことはこれじゃなかった」と思うことも大事。限られた時間をできるだけ前倒しにすれば、本当にやりたかったことに残りの多くの時間を割けるはず。

毎年、何千人もデザインや写真や音楽などの学校を出る人がいて、最終的にそれを仕事にできる人は何十人もいない。たとえそうなれる人の数が一定だとしても、分母が増えるのはいいことだ。やらないで諦めるのとやって諦めることは違う。そのほんの少しの手助けができればうれしいし、このnoteの定期購読でもらうお金はそういうことにも使いたい。

画像1

本当は「性善説」というのは表現がちょっと違うんだけど、誰にでも何かの希望や才能があるのなら、環境によって諦めなくて済む(本来自分が持つ善に向かって生きられる)世界がいいなあと思っている。それをクラウドファンドで解決する方法もあるけど、本来ならそんな基本的なことは国がやるべき問題で「持たざる貧しい庶民同士が互助会としてやってくれるから、我々は何もしなくていいだろう」と国に思われてしまうのも困るのだ。

誰かのためにするのではなく、自分が見たい未来のためにできることをしたい。と思いながら、おはようございます。

定期購読マガジン「Anizine」
https://note.com/aniwatanabe/m/m27b0f7a7a5cd



多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。