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「見る、と、作る」

SNSが生んだ一番大きい変化が、「批評」のあり方だと思っています。

目の前に現れたモノに対して、ネットの言葉でいう「脊椎反射」で何かを言う。資格なく誰でも言える権利を、民主的で開かれた、と好意的に受け取ることもできるんですが、反面、ピント外れなただの攻撃も増えました。

太宰治が小説を発表すると文芸評論家や他の作家がそれに痛烈な批判、批評を与える。どこに書かれるかというと、一般誌や文芸誌です。そこでは自分の名前で書くことを認められた人々だけが執筆していました。

納得がいかない太宰治は反論することもあったでしょう。「温泉でボンヤリしながらイモリに石投げた、なんてくだらない小説を書いているようなオッサンに言われたくない」とか。

泥仕合であろうと、そこには同じ資格を持った戦いのリングがありました。勿論リングの周りには観客がいる。SNSがもたらしたのは、マイクが観客席の声をすべて拾ってしまう事態です。

匿名の観客一人一人にピンマイクがついていて、あいつの小説はつまらない、顔が気にくわない、偉そうだ、などと言っている。リングの上で戦う人々は、偉そうだと言われないように振る舞ったり、コンプライアンスを守ることに気を取られたりが優先されてしまい、戦いどころではありません。

見る能力と作る能力はまったく違う領域です。

観客の見る側の権利は尊重されるべきですけど、それは作られたモノが自分に与えた個人的な影響のみを語るべきで、「作る態度がなっていない」と言ったらアウトなのです。領域が違うことを想像できないから。

そこを都合良く、俺はたくさんいいモノを見てきたから作ることもできる、と考えるのは筋違いで、俺たちは寿司を食べたりマシュマロを食べたりして、あれが美味しい、これはイマイチと言うことはできます。でもどれひとつとして「作れない」。

たとえ小林秀雄のように、批評することでトップレベルになれたとしても、作ることの最下位にさえ及ばないという事実を理解していれば、「俺もあの時に高校の野球部を辞めていなかったら、今頃はヤンキースの四番バッターだったかもな」なととは言わないはずなのです。

小林秀雄で言えば、「批評する姿を観る」という二段階目の観客がいることはここでは無視しますけど。

ちなみに俺も、読者として志賀直哉はまったく面白いとは思えません。同じモノは決して書けませんけどね。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。