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やりたいことをして繁盛。

板前の魚の絞め方やウロコの取り方など知ったことじゃない。客は「旨いか、そうでないか」だけで判断する。魚の下ごしらえの苦労を客に言うべきじゃないし、反対に客はそこに興味を持たなくていい。それが提供する人と受け取る人の関係。

自分の家を新築し、立派な家が出来上がる。そこに配管工がやって来て「あそこの取り回しは苦労しましたよ」なんて言われてもどうでもいい。暮らす側は水漏れや詰まりがなければ、壁の奥に埋もれた配管なんか意識にのぼらないからだ。このように職人の技術は素人にはわからないものとして、ただ実直に過不足なく最高の技術で存在していればいい。それこそが職人のプライドであり、あるべき姿だと俺は思っている。

写真で言えば「この人を撮ってくれ」と依頼されること、頼まれてもいないのに誰かを撮りたくて撮ることがある。この二つには大きな差があって、前者は職人の仕事に近く、後者は純粋な表現に近い。

ここを行き来する面白さもあれば、矛盾を感じることもある。面白さが違うからだ。俺の理想は後者の領域を肥大させることにより、前者の仕事をできるだけ純粋な方向にシフトさせること。「あの人はこういう表現活動をしているから、今回の広告にもそのスタイルでやってもらおう」と頼まれるようになると商業活動としてのストレスが減っていくという意味だ。

前者のエリアのみが大きくなると職人に近づく。そのスタイルももちろん選択肢としては立派であり、匿名の仕事人としての自己を確立できればいいが、仕事が増えるだけだと経済活動だけに目的が変わっていく危険もある。それは写真を撮るという自分の楽しみを冒涜することにも繋がる。経済優先になるあまり質が低下した状態を「味音痴の客で大繁盛しているレストラン」と便宜的に呼んでいる。

やりたいことを曲げずに閑古鳥、やりたくないことを我慢して繁盛、やりたいことをして繁盛、という三つの状態がある。言わずもがなだけど三番目を目指している。前の二つは、言ってしまうと自分の心持ち次第でさほど難しいことではない。一番目はただの愚痴だし。三番目だけが難しい。味にうるさい多くの客から、途切れずに指名されなければいけない。

俺は原始的な人間なので、現在興味のあるヨーロッパのスタイル(写真だけに限らず)を学ぶためには自分の目で見るしかないと思って、最低でも3ヶ月に一度はパリに来るようにしている。それは配管工が技術を磨いたり、板前が綺麗にアニサキスを取り除くような作業であって、客とはまったく関係ない。自分の内部だけの問題だ。

すべてにこうするべきという正解も倫理も態度もない。世界中の写真家はどんなに数が多かろうと「競合する敵」ではない。自分とは違うことを追い求めている尊敬すべき対象だ。だから俺はあらゆる人の素晴らしい写真が見たいし、それに驚きたい。

完全に職人の話と表現者の話がごちゃついて整合性はなくなったけど、ムードだけ受け取っていただけると助かる。俺も頑張って撮るから、皆さんも頑張ってください。

「写真の部屋」https://note.mu/aniwatanabe/m/mafe39aeac0ea

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ヒマだな!
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ワタナベアニ

写真家・アートディレクター。着ぐるみの中は繊細です。1964年生まれ。現在「ロバート・ツルッパゲとの対話」出版準備中。