田舎の時間の進みは遅い

帰省して1番に感じたことは、「時間がゆっくりだなあ」ということ。

そう感じるのは一貫して、一日のゴールが設定されていないため、そのゴールから今日一日中がどのくらい進んだか、などの概算が取れず、抽象的時間軸を過ごしている体ともう。

そう感じるのは自分的要因と外的要因、外的要因はさらに内と外、それぞれにある。 

まず、自分的要因について。
これは単純にするべきタスクがないこと。
というか、今日までにこれしないとなーと追われることがない。
なので、すごい気持ち的にも楽だし、1日の時間の進みが遅く感じる。

また、リラックスが中心の生活であこと。
リラックスが中心だと、時間の締切みたいなのがなく、ボケーっとしとくだけなので、時間の進みが遅い。

次に外的要因の内。
内ではほぼ100%テレビがついている。このテレビのせいで、ある意味時間軸が狂う。
本を読んだり、パソコンをいじろうとしても、テレビがあるせいで集中力を削がれて、一日経ったときの入っている内容と進捗度、達成感が半減する。
また、家の中では、ひたすらテレビを見る親やおじいちゃん、おばちゃん。
テレビに難癖をつけたり、意見をしたりする。

この家の中でテレビ中心の生活が形成されているせいで、自分という時間を共有するものへとなってしまう。別にそれはそれでいいのだが、見終わった後に何も残らないことが多い。
例えば、ネットフリックスとかなら、パッケージ化された内容がまとまって入ってくるので、分かりやすく「これを見た。面白かった。」となる。しかしながら、バラエティー番組は大抵中身が無いものばかりや、内容を1時間に無理やり引き延ばした内容を放送しているため、1時間後にえられる内容がかなりしょぼくれたものとして印象に残る。

こんな感じで、時間に見合った情報の密度が小さすぎて、普段を、1情報/時間とすると、田舎(実家)では0.5情報/時間である。(1bit/tとかになるのかな?)

次に外的要因の外。
テクノロジーが進んでないが故に遅いと感じる。
例えば支払い。QRコード決済ではなく、基本全員現金精神で、なかなか列が埋まらない。
駅に行けば、大勢の切符を買う人。
生産性もうちょっと上げれるとかあるんじゃあない?と思うような箇所にちょくちょく出会う。

そんな感じで、時間の進みが田舎は遅いと感じた。

だが別に、悪いことではないと思う。
というか、なんだかその無駄だったり、タイパにこだわらないこと必要であるのかもしれないと感じた。

というのも、ダイパばかりに気を取られて目の前のタスクをこなすことで、目の前の些細な変化から感じる幸せや小さなことをドロップアウトし過ぎているからと思ったから。

例えば、カフェにて「今日はよーけ車が来るね」という親のひとことに対して、「うん」としか言えなかったというか、「それ話す意味ある?」と感じてしまった。。

多分前までの自分なら、「多分俺のこと見たくてみんな集まっとんじゃない?」とかさらっと言ってたりしていたと思う。(親の前だからなのかもしれない。笑)
なんかでも、その一言に対して、しょうもないと感じたのは事実だし、タイパを求め過ぎて、無駄という心をどこかに置いてきてしまっているかもしれないなあと感じた。

ということで、この生産性を求めるがあまり、無駄の中に存在する楽しみやクリエイティブ。楽しさ、ひいては幸せをも置き去りにしていくのではないかと、ふと思った。

まとめると、田舎は時間の進みが遅いと感じた。理由としては、外的要因と自分的要因。
時間の進みが遅いのは悪いわけではなくて、少しは取り入れつつ、無駄を感じる中で、生み出される幸せを置き去りにしないようにしたい。

以上。

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