「歴史」をいつ、どのように教える?

ホームスクーリング、ホームエデュケーションとなると、基本的に親が勉強を見ることになります。何をどのように教えるのか、前例もガイドもほとんどなくまったく手探りですが親としてもっとも気になるところですが、慌てずじっくり考えていくしかないと思っています。

その点では息子はまだ小1ですのでまだ急いで結論を出す必要はないのですが、そもそも不登校やホームスクーリング等と関係なく、ずっと気になっていたことが歴史をいつどのように教えるのがいいのか、ということがあります。


まず自分自身についてですが、個人的には歴史は大好きです。特に日本史と、世界史の近代史以降は平均以上の知識はあると思います。大学受験のときは理系でセンター試験で社会を1科目受験だったのですが、「日本史」を選択し(当時はいまのように「A」「B」等と分かれていませんでした)、それなりの点数を取りました。大学に入ってからは今日にいたるまで試験勉強として歴史を学ぶことはありませんでしたが、趣味と教養として歴史のことは自然と学んできました。最新の学説で学校で教えていた歴史が変わった、みたいな話は大好きです。例えば、鎌倉幕府成立は1192年から1185年に変わった(「いいくに」から「いいはこ」になった)という話は聞いたことがあると思いますが、これは「源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた(1192年)」ことよりも、「源頼朝が全国の守護・地頭の任命権を朝廷から認めさせた(1185年)」こと、つまり実質的な全国の政治と徴税の権利を武家が握ったことを、日本で初の武家政権の成立(「鎌倉時代」の始まり)の本質とみなすということが共通の見解となった、ということです。こういう話が自然と出せると場面によっては会話がはずむこともあります。もっとも、場の空気を読み間違えて蘊蓄(うんちく)おじさんにならないように気を付けなければなりませんが…。

私自身は歴史を学ぶのはとても楽しいですし、息子にもできればそのような学ぶ楽しさを感じてもらいたいということはありますが、それ以上に歴史は単なる「教養」以上に、学ばなければならない「素養」ではないかと考えます。自分の国の歴史を知っていないと国際的なコミュニケーションができないということはよく言われますがそんな表面的なことだけではなく、歴史を学ぶこととは人類の歩みを知ることであり、人類の成功も失敗も清濁併せて学ぶことで人間とはどういうものかを知り、これからの未来に活かすこと、活かさなければならないことと考えます。


1945年が人類の歴史の最大の転換点のひとつであることは疑いようがないでしょう。戦前、「列強」と呼ばれたヨーロッパ諸国(ソ連含む)とアメリカ、日本を中心として全人類を巻き込んでの大戦争(世界大戦)を起こし、およそ人間として発想しうる限りかつ当時の技術で可能な限りの破壊と虐殺を行ない、1945年8月(正確には9月)疲れ果てた挙句にようやく戦火が止みました。正義か悪か、加害者か被害者か、といった単純な議論で片付く話ではありませんし、ここでは言及しませんが、ひとつ言えることは「人類は集団でヒステリックな状態になり、走り続けるとここまでのことをしてしまう(という前例がある)」ということです。1945年以降、人類はあまりの惨禍を目の当たりにして、特に核兵器の登場で戦争により人類が滅ぶ可能性が現実化し、確かに人類は「戦争は起こしてはならない」という建前を共有するという歴史の転換点を迎えました。しかしこれは「戦争を起こせば自分たちが死ぬ(滅びる)」という恐怖からくるもので、残念ながら人間自身が進化したとは言えません。人間は、相手を人間と思わなくなるとここまでのことを行なってしまうという悲しい事実を知りかつ残念な真理を理解し、二度とこのような過ちを繰り返さないためにどうすればよいかということを考えて、行動するための理性を鍛える、これが歴史を学ぶ目的であり学ばなければならない理由だと考えます。

もちろん歴史を学ぶこと自体はとても楽しいです。上のようなことばかりを考えて「歴史を学ばなければ」という姿勢で学んでも苦痛になるだけですし、現に日本の場合は最後の最後に国を挙げての滅亡に突っ走るという暗い展開を迎えますので意図的あるいは無意識に学ぶことから避ける傾向があります。共通試験(センター試験)で点を取りにくいという理由で高校生が日本史を学ばない(もっと言えば「日本史」「世界史」「地理」「政治経済」のいずれしか学べない、「物・化・生・地」も同じ)というのは受験の最大の弊害のひとつだと考えます、がこの問題はとりあえず今回は置いておきます。

このように歴史は楽しんで学べるのですが、「不都合な真実」を学ばなければならないという宿命があります。そして、人類の未来のために学ばないといけない、学ぶことから目を背けてはいけないものなのです。


一方でいつ、どのように教えるのかという問題があります。歴史は学ばなければならないということと、小さいうちから教えなければならないということはまったく違うと考えます。例えば算数や漢字、科学などであれば、子供の興味、楽しく学ぶ意欲とともにどんどん吸収させれば問題ありません。例えば漢字の場合、〇年生で習う漢字、小学生では習わない漢字、なんて区別をする必要は無く、読める漢字はどんどん読めればよいと思いますし、たし算引き算から、かけ算や分数、小数、マイナスの数などもどんどん気付く限り教えてあげればよいと思います。

しかし歴史の場合は、特に「負の歴史」をどのタイミングから教えるべきか、子供自身に受け止めるだけの心の成長がみられるか、ということは見極めなければならないと考えます。特に先の戦争の歴史の日本を含む侵略行為、原爆、空襲、ホロコーストなどを心の成長が不十分な子供にいきなり学ばせると下手をすると精神的外傷(トラウマ)を与えかねませんし、少なくとも楽しく学ぼうという意欲を削いでしまう可能性があります。リンカーンの伝記を読んでの奴隷制度なども同じです。

もちろん、親や教師などの大人が向かい合いたくないから教えない、ということはあってはなりません。ましてや都合のいい解釈を刷り込むなどは論外です。しかし、教えるときにはそのタイミングと教え方をよく考え、さらには学んだ子供の受け止め方を見るということは必要だと考えます。単に教えるだけでなく、どう考えるか議論することも必要かと思います。特にホームスクーリング、ホームエデュケーションを行なうにあたっては、向き合わなければならない問題だと思っています。


幸いまだ息子は小1ですのでまだしばらく考える時間があります。じっくり考えながらゆっくりと準備をしていこうと考えています。

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