次世代レベル/そういうプログラムを生きている

先日、ある文章を書いたことで、私は自分がほとほと疲れ切っていることに気がついた。

それは「何が悪いんだろう?」と考えること。

悪者探し。原因探し。

自分にとって望ましくない出来事が起こると、その模索が始まる。

体調が悪くなれば「私のどんな行為が原因なんだろう?」と考え、「自分が悪いからこうなるんだ」に変わり、結果、自分を責めることにつながる。

それをずーーーーーっと長いことやってきた。

過去を振り返ってみれば、さまざまな場面でその「悪者探し」を、ずっとずっと、ずっとずっと、やり続けてきたことに、気づく。

幼少の頃、母が泣けば「父が悪い」と思い、自分がいることが重荷なのかと「私が悪い」になる。容姿に不満があれば「親のせい」だし、生活がパッとしないのは「生まれた土地のせい」。そう、自分の不幸はすべて「誰かのせい」「何かのせい」。

けれども、成長して大きく視野が広がっていくと「不都合が起きた際に誰かや何かのせいにしても、結局問題の根本は解決しない」ことに気づきはじめる。

起きていること対して「自分のせい」という視点で、考えてみることを学んだ。

人と対立してダメージを受けた際に「相手からしたら私にも悪い点があったのかもしれない」と考えることは、考えるだけで歯噛みするほど悔しいことでもあった。けれども、そうやって視点を変えて発想してみることで、これまで目を向けてこなかった自分の考えぐせやパターンみたいなものがあることに気づく。

そして結局、不都合が起きるのは誰かや何かが原因というより、自分の過去からのトラウマだとか観念だとか、そういったものが影響しているようだと、思い至った。

視点を変えたことで、自分の内面にあるもの・本質みたなものが見えてくる。そこに気づくことで、自分を癒し、消化して、昇華させている。確かに心は、軽くなっていった。自分にとって不都合が起きた際に「自分の中の何が反応しているんだろう?」と考えてみることには、一定の効果があったと思う。

けれど、ここにも落とし穴があった。

「自分を改善しよう」という、意識。

改善……不都合なことや不具合を見つけて、正すこと、直すこと。

一見、何の問題もないことのように見える。

けれども、自分に対して「不具合」だとか「不都合」という発想をしている時点で、自分に対する無意識のジャッジメントがある。

自分の中の何かを「正解/不正解」とすることで、自分で自分を裁いている。

その自分を裁くという発想に、疲弊していた。

そして何より、何かに対し「正解/不正解」と発想すること自体、もう前時代的なのではないだろうか。

何かに対し「正解/不正解」と発想する時。
そこには「何が正解で、何が不正解」という基準が発生する。

でも、そもそも、その判断基準って、何なんだろう?

「自分のせい」という視点で、考えてみることをやってみた時。色々な自分の性質に気づくことができ、自分にとって「好ましくない」と思えるような性質は手放した方がいいものなのだと思っていた。

けれど、そもそも自分が持っている性質に対して「好ましくない」とジャッジするって。何だか自分への冒涜のような。そんな気持ちも出てきたのだ。

うまく立ち回れなかった自分。
損してしまった自分。
心が狭かった自分。

振り返っては、その時々の自分を否定してきた。
否定することで、改善したつもりだった。

けれど、そんな風に不器用だった自分だって、確かに自分そのものなんじゃないか。

「良くなかった自分」なんて、いない。

良くなかったことなんて、何もない。

良いとか悪いとか、判断するものでなく。

全てのことはただ「起こって」いるだけ。

そう。

私は。

私たちはきっと「そういうプログラムを生きている」。

そういうことだと思うんだ。

「不都合や不具合が起こった際、まずはその原因を特定して、それに合わせて対処する」

一般的なやり方であり、世の中の多くはこのように動いている。

けれども、その一方で「それって前時代的なやり方なのではないのか」と感じる自分もいる。

不都合だろうが不具合だろうが、起きていることは起きるべくして起こったにすぎない。

ただ「起こった」それだけのこと。

自分が「そういうプログラムを生きている」。

そういうことなのではないのだろうか。


私が体調不良で訪れた医院では、生活習慣をヒアリングし「これが原因ではないか」とあたりをつけ、薬を処方した。

自然療法系の治療院では、過去に摂ったサプリメントが悪いとか祖先の墓参りした方がいいとか、何か「憑いて」いるとか、塩がいいとか水がいいとか、さまざまな診断があった。

それらの治療に共通していたのは「最初は良くなるけど、継続していくとあまり効果を感じなくなる」という点。薬の場合は副作用もある。それらの治療で「症状が落ち着く」ことはあれど「治る」ことはなかった。

その医院にせよ治療院にせよ、間違った診断をされたとは思わない。

彼らは、彼らの真実をやっているという話。

そして私は、何というか、次世代のレベルのことを考えている。


最近、興味深い本を読んだ。

それによると、地球は1万年を1単位として変動しており、その中でも2500年を区切りに大きく変化するという。そして現在は、その5000年の節目の新しい時代に入ったところ。

その新時代に適応するため、今、古い時代の浄化・消化が起きているという。

天変地異であり事件や事故であったり、個人であれば体調不良だったりするのだが、旧時代のゴミを完全に破壊して消し去り、きれいにしなければ次の時代に行けないとのこと。

私にとってはとても、しっくり来るものがある。

今自分に起きている不調が、新しい時代を生きるための、浄化・消化であるとしたら。

それは医院でも治療院でも治らないだろうし、私はただそのプログラムをやっているのだと思えるし、そしてそのプラグラムによって新しい時代バージョンの私になることを期待しようと思う。

いや、新しい私に、なるのだ。

新しい時代は、かなり楽しそうである。

今までとは真逆の価値観だそうである。

でもすでにそれを、肌で感じられる部分も確かにある。

信じるも信じないも自分次第。

でも次世代に向けての舵は、もう切られている。


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次世代、というか新時代のレベルでは、すべてにおいて「ただそういうプログラムを生きている」ということなので、そこに良いも悪いもない。

ジャッジせず、ただ直感に従って、行動すればいい。

その中でもちろん「不都合や不具合が起こった際、まずはその原因を特定して、それに合わせて対処をする」というようなこともあるだろう。

そう、何も、悪いことなんかない。

あくまで主体が「自分」であれば、どんな手法でもいいのだと思う。

主体を自分以外のものに明け渡した時、物事はおかしな方向に行ってしまうのではないだろうか。

自分を、自分らしく活かせるのは、自分。

でもそれは、すべて自分で何でもできるようになるとか、そういうことではなく。

自分の質を正しく知って、時に人の手も借りつつ、あくまで自分が主体となって、自分が自分をリードしていくあり方。

それが「自立」ということなのではないのかな。

自分が自分の、責任を取る。

「責めを負う」という意味ではなく、自分の考えや行動や言動が、本当に自分の心からの行為であるかどうか。

その正直さに対しての責任、ということのような気がする。

自分の中の、真実を話す。

それは世間一般からかけ離れているかもしれないし、理解されないかもしれないし、前例もないかもしれない。

けれど、確かなことは。

「私は確かに、心からそう思っている」という、自分の思い。

誰に何と言われようと、動いた心は自分だけのもの。

自分が「感じた」こと。

何となくでもそんな風に思う、そんな気がする。

その直感を、自分の感覚を、ちゃんと自分がキャッチして、そして信じること。

自分を信じる。

これが「自信」ということなのではないのかな。


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ということで、

これは今私が紛れもなく感じていることで、私の中の紛れもない真実。

これを正しいとか間違いとかで判断するのも自由。

人がこれをどう捉えるかは、もう私の圏外なのだから。

2022.2.20 1:50-3:15

深夜に

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