全肯定する人と袈裟まで憎い人の言い争い

結論

全肯定する人と袈裟まで憎い人の言い争いは全世界に公開された井戸端会議である。

ネット上の論争

ネット上の論争における登場人物には概ね次のような人たちがいる。
①メリットデメリットから、どんな立場の人には得か損かを考察する人
②得する立場、損する立場から自己の利益が最大になる意見を発信する人
③特定個人や団体が好きまたは嫌いだから対立意見すべて否定する人
④なんとなく悪そう方をせめて良さそう方を肯定する人

大半の国民は④にあたるが、②や③の人の発言から③になり、いつの間にか自身の発言に縛られて②になったりする。
①の人は基本的に中立な立場だが、発言を切り取られ②や③の人に利用されたりする。
本来の議論に必要なのは①の意見を元に国全体でどう利益を最大化して損益を最小化するかにあるが、ネット上の論争ではしばしば破綻してしまっている。
理由は③の人の存在が大きいと考える。
②の人は利権構造が変化すると意見を変えることが多いが、③の人はある種の教祖的な立場となっていることがあり、論理的に破綻していても好き嫌いに根差した意見にも一定数の賛同者が確保される。
Twitterに代表されるフォロワー数やいいね数の文化はこの数字も持って説得力とする層を産み出した。
本来井戸端で「皆そう言うなら」程度の根拠でしかないのだが、数字が提示されると見た人の捉え方も変わってしまうのである。
1万2万のいいねがついて、それっぽい画像と断言口調の強い意見、一見して流されてしまう人が更に後押しをする構造となる。
もちろん反対意見も付く訳だがこれも論理的な正しさよりも「反対意見である」ことが重視される傾向がみられる。
ネット上には検閲前の情報があり、マスメディアでは得られない情報があることも確かだが、個人により何重にも切り抜かれ、湾曲されたものである可能性もまた高いのだ。

結論へ

ロジカルな説得力を無視した、全肯定と全否定の言い争いはどんな反響があろうともマンションの前で立ち話するおばさま方と同じくらいの根拠しかない。
そんなものでしかないが、全世界に公開され、反響が数字化され、あまつさえ反響に応じて優先表示されるので嫌でも目についてしまう。
今回は安倍元総理の国葬是非や統一教会に関する対処の論争から思ったことだが、自民党の判断はすべて肯定すべき!な人と安倍嫌い!自民嫌い!な人の不毛な言い争いに見えてしまった。
こうなると娯楽として重要な鮮度が落ちたら一般人は別の興味に移って、過激な人たちが延々殴り合う地獄が残ってアンタッチャブルな話題化。
そうなると結果的に既得権が得するので、今回も結果的には自民党と自民支持者が勝つのかなと予想しておきます。
なんにせよちょっと落ち着こう。

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