優しいのに報われない人と、弱さ由来の優しさ

弱さとは、何かができないことや能力が低いことそのものではなく、そのことを恥だと思って、自分の人間的な価値を自分で低く見積もってしまうこではないでしょうか。

自分の「できなさ」を「価値のなさ」、に結びつけて考えてしまうこと、その考えによって本来の自分が出せなくなること、臆病な態度をとることしかできなくなること、それが人間の、特に多くの男性の弱さの正体だと思います。

この意味での弱さを抱えた人は、自分が無能であることや、自分が無能であると周囲から思われることを極端に恐れ、そう思われないように行動しようと自然に努力してしまいます。

その一つの手段が「優しさ」です。

その人は確かに本当に優しい人なのですが、自分が無能であることを悟らせないように、そのための手段として人に優しくする場合があるということです。

自分の持っている「優しさ」という一面だけを強調することによって、触れられたくない他の一面を人の目からうまく隠しているのです。その隠している一面とは、「できなさ」「無能さ」であり、具体的には「恋愛経験の少なさ」「カッコ悪さ」「話が下手なこと」「臆病なこと」などです。それはその人が恥ずかしいと思っている部分で、それがバレたら自分の価値が下がってしまうと思い込んでいるような一面です。それがその人の弱点になっています。

優しいことはいいことですが、自分の無能さをカバーするための手段として用いられる優しさは、相手にとってもあまり快いものではありません。時には不快感さえ与える場合もあるのです。

なぜなら、そのような優しさは、「この言動を優しさであると解釈してくれ、それ以外の解釈はしてくれるな」という圧を相手に与えるからです。そのような圧を与える人々は、自分の言動が相手の自由に解釈されることが怖いので、できるかぎり自分の意図が正確に伝わるように念を押さずにはいられないのです。

「どうせ無能だと思われてるんだろうな」という不信な目で相手を見ているために、自分の言動を誤解されるのではないか、という強い不安にかられるのです。

「これは優しさなんだよ」と自分の言動の正当性をアピールしてしまうのは、それが本当に純粋な優しさではないからです。嘘をついているから言い訳するのです。その優しさの根底には、「自分が無能であることを隠したい」という下心が隠されています。また、優しさをアピールすることによって、「無能ではない、価値のある人」を演じて、あわよくば相手に好かれたいという下心もそこには隠されています。常日頃から、自分で自分を「無能で価値のない人間」であると思い込んでいるので、誰かに価値を認められたいという欲求が抑えきれないのです。

このような欲求は、異性に対して向けられる場合、性欲とほとんど見分けがつきません(もちろん異性だけには限りませんが)。「誰かに認められたい」という欲求は、「誰かと結び付きたい」「誰かと深く交流したい」という欲求と同じラインにあるものだからです。

それらの欲求は実際に、本人の心のなかで性欲と一体化している場合もあるでしょうし、していない場合もあるでしょう。ただ、一体化していない場合でも、「これは性欲でない純粋な優しさなんだ」ということを無理やりアピールしようとして、むしろ性欲の存在を浮き上がらせてしまう場合もあります。

弱さ由来の優しさ、つまり「自分が無能であることや、それに類する性格を致命的な弱点や、他人に見せられないほどの恥だと思っている」ことによってその弱点や恥をカバーするための手段として用いられる優しさは、その根底にある下心によって、性欲と見分けがつかなくなる、あるいは性欲と一体化しているので、報われることはないし、相手を喜ばせるどころか、むしろ不快感を与えてしまう場合があるのです。

これが、「優しいのに報われない人の持つ優しさ」の正体です。


自信がない人は成功体験を通じて自信をつけるべきだ、という主張はどうなのかなーと個人的には首を捻ってしまいます。

自信をつけることによって自己肯定感が高まることはあると思いますが、自信をつけることが正しいという考えは、自信がないことは悪いことであり、克服するべきだという考えの延長でしかありません。

無能であることや、かっこわるいこと、自信がないことなど、自分が自分で弱点だと思い込んでいることを一つずつ克服したところで、完璧な人間になることはできません。それに、もし完璧になることができて、それであなたは本当に満足するのでしょうか。あなたはあなたを好きになれたり、誰かに好かれたりするのでしょうか。

社会的な圧力や一般論などの影響もあって、この時代を生きる男性が、自分の無能さや、カッコ悪さや、できなさを認めるのは本当に難しいことであると思います。

女性の生きづらさのひとつには、「できることを認められない」「やっていることを正当に気にかけてもらえない」というものがあります。

これに対する男性の生きづらさが、ここに書いてきた「できないことが価値の低さに直結する(→だから『できるようになる以外の救済はない』という思い込みが生じる)」というものだと思います。

男性を喜ばせる「さしすせそ」の「さ」は「さすが」、「す」は「すごい」と言われますが、実際には「さすが」や「すごい」よりも、「ほんと馬鹿だねー」とか「全然意味わかんない」などのような言葉のほうが言われて嬉しいという男性は非常に多いと思います。

なぜなら、「馬鹿だねー」という言葉が、自分が隠さなければいけないと思っている弱点を認めてくれていること、その弱点を知った上でも失望しないでいてくれることを表しているからだと思います。

自分の弱点と向き合って受け入れていくことは、決して開き直ることではありません。努力して弱点を克服することは良いことだと思います。しかし、弱点の有無や多さが人間の価値を決めるわけではないことや、弱点を克服することによって良い人間、強い人間になれるわけではないことは自覚しておくべきです。

あなたには弱点があると思います。できないことがあるし、人には言えない恥ずかしいことや、話題に出るだけで心が痛くなるような、自分でも目を背けたくなるコンプレックスがあると思います。人に笑われて傷つくこともあるし、情けなくて泣くこともあるし、怖くて堂々とできないこともあるし、初めてで不安なこともあるし、知らないこともあるし、やりたくないこともあるし、平気じゃないことも、強がっていることも、謝りたいことも、話したいことも、話したくないことも、いっぱいあると思います。でも、そのどれも、あなたの大切な一部であり、あなたの誇りと同じように重要な価値のある一部です。それを大切に持っていることは絶対に悪いことじゃないし、それを隠す必要も、なくす必要もありません。

もしかしたら、あなたは無能かもしれません。あなたは非力で、不能で未達かもしれません。しかし、どうかそのことで傷つかないでください。どうかそのことで失望しないでください。自分を見捨てないでください。

あなたは有能で優しい人間になる必要はありません。あなたは無能なまま優しい人間になればいいのです。それは素晴らしいことです。社会や一般論や、あなたの恋する相手があなたの弱点を以てあなたの価値を否定しても、それはあなたにどんな影響も与えることはできません。

あなたの人間としての価値も、男性としての価値も、あなたの無能さによって損なわれることはないし、あなたの有能さによって上がることもありません。

どうかそれを心から信じてほしいと思っています。

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